題字 鷲野鵬山
 
 三輪田米山は、伊予松山が生んだ偉大な書家です。安政四年(1821年)1月10日、 松山市久米にある日尾八幡神社の神官の子として生まれ、明治42年(1908年)11月3日、88才で亡くなるまで多くの優れた作品を残されました。

 また米山はお酒をこよなく好まれ、書家として以外にも、お酒の逸話とともに郷土の人達に愛され、親しまれ、尊敬されてきました。

 松山近郊のお宮には、神名石、注連石、鳥居等多くの米山の作品があります。このホームページはそれの紹介です。作品の殆どは、松山市を中心とした平野部分にあり、自転車でも行けます。全ての場所に詳細な地図を付けていますので、どうぞご参考にして頂き、直接ご覧になられることを願っています。

 
 地域   場所        碑文
久米地区    
  仙波大護神  記念石仙波祖大護神三百年記念碑他
  長善寺  乃万氏墓石墓碑
  久米三差路  道標 みぎへんろ道
  日尾八幡神社  注連石、神名石他
  三輪田家墓所  三輪田元綱墓他
  軍森神社  神名石、鳥居
  浄土寺  米山三輪田先生墓
  東山神社  神名石
  武智家墓所  墓石陸軍工兵伍長武智佐太郎墓
  石川家墓石  墓石 石川家之墓
  辰岡天満宮  幟立石
高井、鷹ノ子    
  龍神社  鳥居
  客天満宮(水泥)  神名額、神名石
  素鵞神社  鳥居、漱石
  波賀部神社   神名石
  三熊野神社  鳥居
  正友神社  注連石、神名石
  高井神社  神名石
  高井八幡宮  神名石
  日吉神社(梅本)  鳥居
久谷、荏原    
  大宮八幡宮(荏原)  鳥居
  正八幡宮(窪野)  神名石
  勝山天満宮  神名石
  三島神社(東方)  漱石
  葛掛五社神社  神名石、常夜灯
  丸山神社  神名石
  徳川神社  注連石
川内、横河原     
  惣河内神社  常夜灯
  徳威三嶋宮神社  鳥居、三十六歌仙扁額
  岡八幡宮  神名石
  吉井神社(井内)  神明石
  西岡天満宮   道標
  三島神社(重信)  神名石、注連石
  天満神社  神名石、注連石
  三島神社(川内)  神名石  (本殿国重要指定文化財)
  吉井神社(吉久)  神名石、注連石
  熊埜神社  神名石、神名額
  三島神社(関屋)  神名石
松山地区  
  三島神社(吉藤)  注連石、常夜灯
  伊予豆比古神社  注連石
  井出神社   注連石
  高忍比売神社  神名石、神名額
  客天満宮(祝谷)  注連石
  大宝寺  白石家墓石 (国宝本堂)
  大山積神社  神名石、注連石、常夜灯、鳥居
  黒住神社  注連石
  松山神社  注連石
  客王神社  神名石、注連石
  多賀神社  漱石屋石柱
  天一神社  注連石、鳥居
  日招神社  注連石
砥部、久万    
  宮内天満宮  神名石
  大宮神社(砥部)  注連石
  伊雑神社  神名石
  川内神社  神名石、注連石
  葛城神社  注連石
  三島神社(広田)  神名額
北条方面  
  正八幡神社(北条)  注連石
  美津気神社  注連石
  高縄神社   寄付者名石 西園寺公望の神名石
  厳島神社(恩地)  鳥居
  国津比古命神社  記念石
  新田神社   神名石、注連石、鳥居、神名額
  籠御前神社  注連石
沿岸島嶼部  
  願成寺  墓石 富谷亀翁之墓
  日吉神社(南斎院)  注連石
厳島神社(三津)  注連石
  福水神社  注連石
  忽那神社  注連石
  船越和気比古神社  注連石
  当田神社  注連石
 
  .  
1-1 仙波祖大護神  松山市北久米町  TOP

  地図  
  北緯33度48分53.92秒 東経132度48分07.03秒

  自転車 平坦コース

 
漱石 奉献 1859年 6月 安政 6 39才
記念石 仙波祖大護神三百年記念 1906年 6月  明治39 86才


 境内の由緒書きによると、「仙波一族は下野国仙波庄(今の栃木県)から応永年間(1394年~1428年)に伊予に来て河野氏に仕えた」とありました。

 豊臣秀吉の四国攻めで、主家河野氏が滅びると、仙波一族も武士を捨てます。この同族社は、徳川家康が江戸に幕府を開いた時期に出来、以来仙波一族の団結の象徴として護り神になります。

 今でもこの地区は仙波姓を名乗る人が多く、一族には、秋山好古と同期で4才年長の後に陸軍大将になった仙波太郎氏もいます。


  大護神 三百回の 春迎え


 由緒書き

 三百年記念石と本殿
 漱石
 
 

1-2 長善寺  松山市南久米町

 
 TOP
 地図
 北緯33度48分48.86秒 東経132度48分18.34秒

 自転車 平坦コース

 

墓石・墓誌 乃万安則夫妻墓 1861年 3月 文久 41才
墓石 乃万安泱夫妻墓 1901年 明治34 81才
 

 四面にびっしりと小さく(5センチ角位)楷書で書かれた墓誌を拾い読みすると、乃万氏は蔵書家だったらしい。米山は、ここで<秋萩帖>を借り巻末の王羲之の書を学んでいます。但しこの書は門外不出だったので、米山は25年間一日も欠かさず通って勉強したと伝えられています。

 少し気になったのは、「厳禁奕棊等之戯」との字句があったことです。奕棊は囲碁の別称ですが、ここでは賭け碁を禁じたのだと思います。

 因みに、米山は幼時より囲碁を好み五才で初段だったそうです。当時初段は、県内でも殆ど居ません。優に県代表クラスの強豪です。

 亡き人の ご恩を照らす 春の月

 

 長善寺門 
 「名跡 乃万安泱墓所」 の案内がある 

 門を入ってすぐ右側にある、乃万安則夫妻の墓誌銘が入った墓石
 
 .  
1-3 久米三叉路  松山市鷹子町
TOP  

  地図   
  北緯33度48分31.46 東経132度48分30.00秒

  自転車 平坦コース


 

道標 みぎへんろ道・・・ 1962年 2月 文久2 42才

 

 この道標は、久米街道と旧金毘羅街道の交差点と思われる位置にあります。

 四十九番浄土寺から五十番繁多寺、五十一番石手寺と北へ、札所の番号で言うと若番から老番へ向かう道を順路、此処から四十八番西林寺方面へと、南へ向う道を逆路の意味で「ぎゃく」と言います。

この道標の文字の彫は凄く深い。「へんろみち」の「ん」の字に一センチ程のまん丸い穴があいているのですが、彫りが深過ぎて誤って石をつき抜いたのか、はたまた石工の遊び心でしょうか。

  小春日や 遍路の道に 標石

  

 

写真では見えないが、「ん」の字の右端に直径一センチほどのまん丸い穴が開いている。
 久米駅線路脇の常夜灯
 
   
1-4 日尾八幡神社  松山市南久米町 TOP  

  地図   
  北緯33度48分50.59秒 東経132度48分1秒

  自転車 平坦コース

注連石 鳥舞・魚躍 1880年10月 明治13 60才
神名石 県社日尾八幡大神 1880年12月 明治13 60才
百度石 百度石 1890年12月 明治23 70才
寄付者名石 新会殿新築名簿 1896年 3月 明治29 76才

 日尾八幡宮には、米山が世に出るきっかけとなった「鳥舞・魚踊」と書かれた注連石があります。素人が不遜なことを言うことをお許し願えるなら、私でも書けそうな素朴な可愛らしい字です。

 高い山は遠くから見え、そして近くの丘より低く見える。米山山脈は、あまりにも遠く偉大です。米山のもう一つの偉大さは、この親しみ易さではないでしょうか。そしてこのような書の芸術性を理解し、米山を支え愛した郷土の人達も誇りです。

  鳥も舞え 魚も躍れ 久米の春


  注連石 「鳥舞・魚躍」

  神名石 「県社日尾八幡大社」
 
   
1-5 三輪田家墓所  松山市鷹子町 TOP  

  地図  
  北緯33度48分47.49秒 東経132度48分31.71秒

  自転車 平坦コース

 
墓石 三輪田元綱墓 他  不詳  不詳  不詳


 日尾八幡宮と同じ境内にあり、浄土寺に向かう道路に面した、直ぐ東(お宮に向って右)に数基の墓石があります。元綱墓、三輪田清敏墓、荻山米子墓などの墓碑銘が米山の書と言われています。

 荻山米子は米山の母ですが、明治21年91才の長寿を全うされました。明治維新王政復古のおり良妻賢母の鑑として表彰を受け、青銅一貫文を賜っています。墓碑銘の姓が荻山なのは、明治5年戸籍法が制定されるまでは、入籍という概念がなかったのではないでしょうか。

 元綱は三輪田三兄弟の三男で、明治12年(1879年)54才で亡くなりました。米山59才のときです。勤皇の志士と交わり、若いとき京都で足利尊氏の木像の首を刎ねて晒すという奇行でも知られていますが、次男高房氏と共に学問の人でもありました。当時は、弟達の方が有名だったようで、米山は弟達に刺激されて勉学に励んだ節があります。

 元綱は、明治政府で出世して外務権大正(外交官)従六位に叙せられています。高房は学習院の講師もされ、著書も多く数理に詳しかった。明治42年(西暦1909年)米山の没後一年八十八才で亡くなっています。

  浄土寺や みんまの祭り 遍路笠

 

弟元綱の墓。
一番大きい。

荻山米子。
米山の母。
 
 
1-6 軍森神社 松山市来住町「いくさもり神社」 来住町=きしちょう TOP  

  地図   
  北緯33度48分15.04秒 東経132度48分32.58秒

  自転車 平坦コース

 
神名石 村社・軍森神社 1891年 9月 明治24年 71才
鳥居 奉献 1898年10月 明治31年 78才

 正平19年(1364年)讃岐の国で、南朝に降った細川清と兄北朝の細川頼春と同族の争いが起こります。翌正平20年(1365年)そのあおりを受けて、九州大宰府から伊予郡松前に上陸し進撃して来た河野通尭の大軍と、湯築城(今の道後公園)を守っていた仁木義尹が戦闘になる。

 このあたり一帯は、そのときの主戦場で元々久米原と呼ばれていましたが、以来軍森(いくさもり)と呼ばれるようになりました。神社から南へ100メートルほど行くと、小野川沿いの土手道の横に下の写真に紹介した「久米原の戦跡」と書かれた小さな石柱があります。

 寒椿 片手拝みの 軍森(いくさもり)

 

神名石

境内中央にある通称千人塚。敵味方の将兵の亡骸を、村人達が弔った跡です。

 今は残っていませんが、この辺の旧道を「伊予の血坂」と呼んだそうです。壮絶な戦闘を語るのに、何の形容も要りません。
 
 
1-7 浄土寺  松山市鷹子町
TOP  

  地図  
  北緯33度48分48.60秒 東経132度48分37.70秒

  自転車 平坦コース

墓石 米山三輪田先生墓 1894年11月 明治27年 74才
 

 この墓碑の文字は、門弟の懇望により生前書かれた物です。

 裏面に

 教正自取筆

 明治二十七年甲午冬十一月習書

 明生中建立

 明治四十一年十一月三日逝去 年八十八

 と書かれています。明治二十七年といえば、米山74才です。

 中国には、生前から棺桶を準備する風習のある地方があります。私は、生前から自分の死後の準備が出来る人達に、心底から畏敬の念を抱きます。私も来年は74才。

「今死んだら残された者に葬式代で迷惑をかけるな」と、気が重い。

 年金は 三途の川も ままならず

 

 お寺に向かって左の山道に、米山墓の案内があり、そこから20メートルも登らないで、すぐあります。
 山道を更にのぼると、100メートル少々で、日尾八幡神社の境内と繋がっています。
 
 
1-8 東山神社  松山市南久米町  TOP

  地図  
  北緯33度48分44.36 東経132度48分13.68秒

  自転車 平坦コース

 
神名石 東山神社 1903年6月 明治36 83才

 東山神社の入り口、30メートルほど北側の細い路地に、「ゆうゆう」という小さい喫茶店がありました。カウンターに三人も座ったら満席になりそうな小さな店に、私より少し若い(つまりかなり年配の)マスターが一人新聞を読んでいました。

 「こんな店絶対に客は来ないだろうな」と思った私の腹の底を見透かしたように、マスターがコーヒーを入れながら「定年後のボケ防止にやっています」と言われる。

 「三輪田米山の書を尋ねて自転車でぶらぶらしています」と言ったら、「そういう話しなら家内が好きだから」と奥から奥さんを呼んで下さった。

 奥さんは子供の頃、ある酒の席でお年寄りが米山のことを「べーやんが、飲んだくれて下手な字を書いてのう」と言っていたのを覚えておられるそうです。

 神社の前には、伊予の青石の神名石に、私でも読める上手な楷書で「東山神社」と大書されていました。

 下手な字を 米山流と 言い訳し

べーやんの立派な神名石。

境内にある、推定樹齢350年を越えるクスノキ。

写真では文字が読めませんが、紀元二千六百年記念碑がありました。米山とは関係ありません。
 
 
1-9 武智家墓所  松山市南久米町  TOP

  地図   
  北緯33度48分57.53秒 東経132度48分21.36秒

  自転車 平坦コース

墓石 陸軍工兵伍長武智佐太郎墓 1905年11月 明治38 85才

 武智家墓所は、米山の日尾八幡のある伊予鉄道横河原線久米駅から一駅松山側、北久米の近くにあります。

墓誌によると、武智佐太郎工兵伍長は日露戦争激戦地旅順で戦死していました。墓誌の文字はかすれていましたが、「・・・旅順転戦于小平嶋大白山・・・」という字が読めました。靖国神社忠魂史によると、日露戦争の戦死者は、88429柱祀られています。

10年前1997年旅順が、外国人に開放されたのを機会に、日露戦争最大の激戦地旅順の203高地に行ってきました。

旅順港を一望に見渡すこの戦略的拠点の攻防をめぐって、日露の両軍が文字通り肉弾戦を展開しました。信じられないのですが、標高たった203メートルのこのちっぽけな丘の谷とも言えない谷が、一万人を越える兵士の死骸で埋められました。

小平嶋は大連から旅順40キロの丁度中間で、旅順の東20キロにある海岸の丘陵地帯です。一帯は全て激戦地だったのでしょう。「坂の上の雲」で、旅順へ参謀として応援に行く児玉源太郎が、途中車窓から林立する木の墓碑を見て、絶句する場面があります。

 百年の 英霊の墓碑 柿たわわ

註 2020年5月現在 この墓石は移転されて、目下移転先不明。調査中です。

周囲はすっかり住宅街。

大正五年4月、南久米日露戦役在郷軍事会の人達の手で建てられた招魂祭記念碑。

 
   
1-10 石川家墓所  松山市南久米町 TOP  

  地図   北緯33度48分41.68秒 東経132度48分26.21秒

  自転車 平坦コース

 
墓石 石川家之墓  不詳  不詳  不詳

 石川家の御当主は、私の高校時代の同級生です。先日同窓会のとき米山の話をしたら、「うちのお墓は米山が書いたものだよ」ということで、早速拝見させて頂きました。

お墓の文字だからでしょうか。印刷文字のような、きっちりとした楷書でした。

 石川君の曾祖父さんと米山が飲み友達で、正月にはよく米山が遊びに来て、そのとき書いて貰ったものだそうです。他にもまだあったのですが、押入れの奥で鼠の糞にまみれていたのを、子供のとき見た記憶があるけど何処へ行ったやら分からないとのことでした。石川君の言葉によると、「米山が有名になったのは、最近やけんな~、昔や~酒飲みたゆう言いよった」そうです。この辺では、神主さんのことを「おたゆうさん」と言います。

 石川君は、近所の温泉で顔を合わすこともあるのですが、アルコールが入ると米山時代そのままの伊予弁丸出しです。素面でも「いんでこうわい」「いけんねやー」などは、純粋の伊予弁です。

  いんでこうわい もう来ぬ人の 風薫る

 註 「いんでこうわい」は伊予の方言で(さようなら)。「いぬる」は「去る」。「こうわい」には別に意味のない語調だが、知らない人が聞くと、去って又すぐ来るのかと思うらしい。

「いけんねや~」は、「駄目だな」といったような意味です。

石川の文字は、くっきりと読める。
 
 1-11 辰岡天満宮  松山市北久米町 TOP  

  地図   
  北緯33度48分52.75秒 東経132度47分31.44秒

  自転車 平坦コース

 
幟立石 奉献  不詳  不詳  不詳

  久米郷土誌で、この石文の存在を知りました。「奉献」と二文字だけ書かれた一対の幟立石の小品ですが、米山の作品で幟立石に書かれていること自体が珍しいと思います。 

 平成三年に石段の改修工事が行われ、全体が見事に整備されていました。石段横に並ぶ石柱に書かれた寄贈者の名前の中に、米山と縁の深かった乃万、仙波の姓も見えました。一族の後裔の方々でしょう。

 本殿の後ろの山には、「菅公御腰掛石」というのがありました。菅原道真公が大宰府に流される途中伊予に寄ったという言伝えがあります。

  ひとときの 春を憩えり 旅の石


 幟立て石 左

 
 幟立石 右


仙波直貞は、仙波一族が武士を捨てた最初の人。その同じ名前を貰ったのだろう。

 乃万安則の後裔の方だろうか。
菅原道真が腰掛けたといわれる石
 
 
 
2-1 龍神社  松山市久米窪田町 TOP  

  地図   
  北緯33度48分07.64秒 東経132度48分50.82秒

  自転車 平坦コース

鳥居 奉献・・・ 1867年3月 慶応 3 47才

 

 龍神社は日尾神社の末社の一つで、龍神は水を司る神様です。米山も日照りのときは、神官の装いで雨乞いの祈祷に来ていたそうです。

 実を言うと、私はこの神社の氏子です。我が家から一キロも離れていません。

 今でこそ周辺は舗装道路が完備され、病院もスーパーも食堂も立ち並んでいますが、昭和50年、我が家のある東鷹子団地が出来た当時は、周囲は全て泥んこ道で台風のときには横を流れる小野川の土嚢積みをしたこともあります。土手は蛇の巣窟で、我が家の庭にも蝮がいました。

 真面目な話、龍神社は蛇神社の別名かと思っていました。

 見知らぬ人ばかりで始まった新興の団地生活も、今一世は皆老人会のメンバーになりました。その人達で、二週間に一回お宮の清掃をしています。白状すると私はまだ一回も出たことがない。次から出ます、米山先生お許しを。

 

 招かざる 客が水際で とぐろ巻き

 

鳥井 右 「奉献」

鳥居左
久米郡中并当邨

裏側に書かれている西側「慶応三年丁卯」
東側三月二十一日

久米郡中の雨乞い記念と思われる

 拝殿西側の入り口にある注連石。
  「鳥舞・魚踊」のレプリカ

 

 
 
2-2 客天満宮(水泥)  松山市水泥町 TOP  

  地図   
  北緯33度48分02.16秒 東経132度50分00.03秒

  自転車 平坦コース

 
神名額 客天満宮 1879年5月 明治12 59才
神名石 客天満宮 1901年3月 明治34 81才

 私が米山についてあまり知らないときから、この石のことは知っていました。ある日自転車で走っていて、後ろからどやされたような気配を感じて振り返ったらこの「客天満宮」と大書された神名石がありました。以後私は自分でお化け石と名付けていました。

 米山顕彰会に入っておられる、広島の書家「平野泰山先生」は私の遠縁にあたる方です。三年前松山に来られたとき、先生に請われるまま米山の作品を訪ねて日尾八幡宮と、椿さんをご案内しました。そのときも、このお化け石は米山ではないかなと思っていたのですが、自信がなくてご案内しませんでした。先生から米山の作品集などを頂いて、郷里の偉人米山に関心を持ったのはそれからです。これもひょんな縁で、米山顕彰会事務局のTさんと知り合う。Tさんに平野先生のことを紹介する・・・。そして私も米山にのめり込むという、不思議な縁が生まれました。

 だから、私にとっては、この神名石こそ米山の全てです。

 日暮れ道 米山石の お化けお化けかな

米山のお化け石

神名額

正面の道は旧道
 沿線には、米山の作品がある神社が多い
 
 
2-3 素鵞神社  松山市鷹子町  「そが神社」  TOP  

  地図   
  北緯33度48分50.13秒 東経132度49分03.43秒

  自転車 平坦コース

 
漱石 奉献 1885年5月 明治18 65才
鳥居 黄龍・騰天 1909年9月 明治42 没後

 我が家からは一キロ半ほどで近いのですが、線路を一つ隔てていて別の生活圏になっています。だから今度初めて行きました。そしてこんなに近くにこんなに素晴らしいお宮があるのを知りました。

 なにが素晴らしいといって、お宮そのものと、鎮守の森、それに参道を作っている階段がいい。わざわざ設計したように、勾配が敬老精神に満たされている。きつからず、ゆるからず、長い坂道がむしろ心地よい。

 天王山古墳の上にあることから、地元では「てんのうさん」と呼ばれて親しまれています。

黄龍は皇帝を象徴しています。それと南北朝時代(1368年から1383年)ここに長慶天皇が行宮したという言い伝えと、関係があると思います。米山最後の書「黄龍・騰天」は生前に書かれて、没後鳥居になったものです。

米山は、この坂から天に騰ったのでしょう。

 春霞 米山龍が 騰る坂

米山が天に騰った石段
年豊・人楽の注連石はレプリカ

鳥居右 黄龍

鳥居左 騰天

米山書の神名石 但し昭和三年に再建された物

米山書「奉献」の漱ぎ石
石段を登った左側に、埋もれていた
 
 
2-4 波賀部神社  松山市高井町   「はかべ神社」 TOP  

  地図   
  北緯33度47分36.68秒 東経132度48分45.24秒

  自転車 平坦コース

 
神名石 国史見在・波賀部神社 1889年 4月 明治22 69才

 

 第五十二代嵯峨天皇の皇子寛王命が、この地の国司として赴任しますが、貞観十八年(西暦876年)にお亡くなりになります。ここに祀られ王塚と呼ばれたお墓が神社の神体になり「墓辺神社」となり、その後「波賀部神社」となりました。

 久米郷土誌に記載されている社祠官武智勝の日記によると、米山はこの神名石を書くのに一ヶ月費やしています。米山日誌とも一致するようで、このときの謝礼が記入されていました。

 明治21年11月10日 (旧10月11日)

高井大塚武智勝過日神石認方ノ礼ニ来左ノ通

 1 フナ 数々 武智勝持参

 2 白砂糖半斤入箱

 
  野の風と 主を守るか 宮の森

神名石
「国史見在」
「波賀部神社」

神社の裏から眺めた古墳
 
 
2-5 三熊野神社 松山市平井町  みくまの神社 TOP  

  地図   
  北緯33度48分50.34 東経132度49分54.55秒

  自転車 平坦コース

鳥居 受天・百禄・・・ 1989年 9月 明治22 69才

 この神社は、今回自転車で米山の石文を訪ねる旅の最初に行ったお宮です。漠然と自転車で米山の石文を廻ってみたいと思っていたのですが、そのときはまだ何処に何があるか、何も知りませんでした。

 そんなある日、「こんな所にありそうだな」とふらっと入ってこの鳥居の文字「受天・百禄」に出会ったのです。しかし米山の署名は無いし、文字も草書で私には読めない。明治二十二年という記年と「天」「百」の二文字だけは何とか読めたので、早速米山顕彰会の事務局に電話をしました。

 「米山の縄張りで、米山が活躍した時期に、なんか訳の分からん字を書いている人が居るけど誰だろう」

 程なく返事があって、米山だと分かり文字も教えて貰いました。

 それによりインターネットの中国語のホームページで出典を調べたら、この「受天百禄」の字句は、詩経(周の時代。約紀元前11世紀から紀元前2世紀)の中の「天保」という題の詩にありました。「天保」の解説もありました。「為君王祝和祈福的詩」つまり、君主の幸福を祈念し祝福する詩という意味です。

 更に服部一啓氏の修士論文の中に、丁度この文字を書いたときの日記がありました。

 明治23年1月13日                               

 平井谷村和田重太郎来左之通

 一 拾五銭

  石鳥居筆者謝礼

 三熊野神社とは明記されていないけど、そのようです。

 なんと米山の受けた「百禄」は拾五銭だったのだ。


 春風や 天より受ける 百の禄

鳥居 右 「受天」

鳥居 左 「百禄」

石段を登ってから、拝殿までの長い参道。
 
 
2-6 正友神社  松山市南高井町  (せいゆう神社) TOP  

  地図   
  北緯33度47分11.79秒 東経132度48分40.17秒

  自転車平坦路

注連石 大巧・若拙 1889年10月 明治22 69才
神名石 正友神社 1890年12月 明治23 70才


 

老子の中に、こんな言葉が有りました。「大直若屈、大巧若拙、大弁若訥」。

 大体の意味は、「真っ直ぐに生きる者は屈する、真に巧みな物は拙く見える、雄弁は訥弁に聞こえる」こんなものでしょうか。

 大きな注連石の右側に、「大巧」が小さく書かれていました。自らを「大巧」と呼ぶのは気が差したのか、不自然に敢えて小さく書いたのは「よもだ」か。

 「よもだ」は伊予弁で、直訳したらおふざけですが、軽妙洒脱、おおらかという意味合いがつよい。よもだこそ伊予人の真骨頂で、正岡子規も秋山兄弟も大よもだです。

 それと伊予の人は「えーかっこし」(見栄っ張り)を嫌います。小さく「大巧」と書いたのは、米山にもかなり屈折した自意識があったのではないでしょうか。

 「わいの字を分かる奴が居るか」飲んだくれて下手な字を書いたべーやんが、評価を後世に託したメッセージです。

 

 注連石に 鴻鵠の意気 刻みつけ

 


注連石 右 「大巧」

注連石 左 「若拙」
 
地図

 神社正面の道を、重信川の土手へ向かって突き当たりの左側、通称お旅所と呼ばれる一角にあります。
 こんなに離れたところに神名石があるということは、昔は立派な参道がある大きなお宮だったのでしょう。今でもかなり大きい。
 
 
2-7 高井神社  松山市南高井町 TOP  

  地図  
  北緯33度47分18.65秒 東経132度49分08.79秒

  自転車 平坦コース

 
神名石 高井神社 1892年 4月 明治25 72才

 

 神名石の写真を撮っていたら、丁度お宮の前の家の60才位の男性が、自転車で帰ってきました。

 男性が子供の頃は、この神名石はもっと道路に近い所にあり、この上にまたがって遊んだそうです。土台の石もなく子供でも上がれる低さで、少しくぼんだ所が丁度馬の鞍になったのでした。

 神名石の斜向かいにある常夜灯は、「石鎚さん」という愛称で呼ばれ、毎年71日石鎚山のお山開きのときは、お供えをしてお祭りをするそうです。

 高井といえば、伊予節の「高井の里のていれぎや♪」でも有名です。ていれぎは、高井の清流に自生する緑の水草で、ぴりっとして刺身のつまになります。学名オオバタケツケバナ。男性が「秘密の自生地を教えてあげよう」と自転車で先導して近くの畦に案内してくれました。しかし生活汚水の故でしょうか、残念ながら見当たりませんでした。「こないだまで有ったのにな~、この辺は全部家の田んぼだから、好きに探していいよ」と言ってくれましたが、どうもありそうにないので諦めました。

 今は、近くの杖ケ淵公園の横で、ていれぎの栽培をしています。

 

 秋風や 高井のていれぎ 三津の鯛    子規

 じゃこ天に ていれぎを添え 寒の酒   けん

神名石 「高井神社」

「石鎚さん」の愛称を持つ常夜灯

神名石から見たお宮の全景。
 
 
2-8 高井八幡宮  松山市高井町 TOP  

  地図   
  北緯33度47分44.41秒 東経132度49分11.19秒

  自転車 平坦コース

 
神名石 高井八幡宮 1892年 9月 明治25 72才

 このお宮は、我が家から二キロ足らず、時々行く温泉「ていれぎの湯」の道筋にあります。四国遍路の札所四十八番西林寺もすぐ近くです。我が家から一番近くに有る意味もあって、私の一番好きな神名石です。書の解説は遠慮しますが、「う~ん」と三度位うなって、また来ようという気になる字です。

 打ち伏すまで飲んで書いたという米山のお酒に関する伝説から、私はこの書も酒仙の境地で一気に書いた物だとばかり思っていました。しかし久米郷土誌によると、この書は五十枚から七十枚書いた物の一つだそうです。天才が才に任せて書いたのではなく、天才が精魂傾けて練り上げた書だったのです。

 それを知って、それからは四度「う~ん」とうなることにしました。

  せせらぎや 高井八幡 西林寺


米山の代表作の一つ「高井八幡宮」
四度うなりの 神名石

 境内にある菅原道真公の一千年祭記念碑(明治36年)      窪天満宮が合祀されている。
   2013年近所のI氏宅で発見された
、神名石の下書き

 
   
2-9 日吉神社(梅本)  松山市南梅本町
 TOP

  地図   北緯33度47分56.60秒 東経132度50分57.66秒

  自転車 平坦コース

 
鳥居 万古・清風 1902年 5月 明治35 82才

 新しい道からは分かりませんが、客天満宮(水泥)の正面旧道を自転車で東へ行くと、二つのお宮は一つの線上にあったのが分かります。今は分断されて直接は行けません。

 私が行ったときは、丁度正月の休みで都会から帰省したと思われる若いカップルが、お宮の前の堀で釣りをしていました。

 私  「何を釣っているの?」

 娘さん「ブラックバス」

 私  「ブラックバスは、刺身にしたら美味しいよ」

 娘さん「うそだ~っ!」

 近頃の娘さんは騙し難い。

 ここは、二つの新道に挟まれて、昔の長閑さが残っています。

 鳥居の位置がどうも納得がいかなかったので、参道脇の一軒の家に入ってお尋ねしたら、四十年配の男性が出てこられて「偶然今ありました」と、20年前の神社上空の空中写真を出して来て説明してくれました。「本当に偶然です」と再度言って、畳一枚ほどの大きな写真を一緒に見たのですが、20年間の変貌が一望出来ました。鳥居の位置は、道路拡張のとき小さな事故があったけど、基本的には変わっていないようでした。

 「私は古いことは、知らないから」と、土地の古いことをよく知っている方を紹介して下さいました。またお訪ねしたい。

 鮒釣りや 一年ぶりの 宮の堀

鳥居右 「萬古」

鳥居左 「清風」

南西の方角から見た日吉神社森の遠景。
日本の原風景をたっぷり残している。
まさに「万古・清風」です。
 
 3-1 大宮八幡(荏原) 松山市上野町 TOP  

  地図   
  北緯33度46分15.22秒 東経132度48分40.76秒

  自転車 平坦コース

 
鳥居 奉献・・・ 1881年 9月 明治14 61才

神名石は、五メートル近い大きな伊予の青石に、陸軍大将秋山好古が「大宮八幡神社」と楷書で大書していました。その奥の鳥居には、米山の「奉献」の二文字が、飄々と書かれていました。

ここで私の心を捉えたのは、鳥居の横にひっそりと立った、小さな幟立石のかすれた文字です。

以下は判読の部分もありますが、「寄殷 天明三年夜明松東巳二月 丹生屋氏」と読めました。

 問題は、天明三年の年号です。1783年、南海道は日本近世史上最悪の飢饉に襲われました。松山地区でも三千人を超す人が餓死し、特にこの付近は一番酷く、地獄図絵の惨状を呈したと言われます。

 中日大辞典で調べたところ、「殷」は深い憂いとありました。

 この小さな柱に深い憂いを寄せ、餓鬼地獄の中で亡くなった人達への供養をしたのでしょう。

 合掌念仏。

 

冬日差し 寄殷の石碑 文字かすれ


 秋山好古大将書「大宮八幡神社」

 米山書「奉献・・・」

 「寄殷」と書かれた幟立石

地図
 当郷餓死萬霊塔 天明の飢饉の供養塔
 
 四十八番西林寺前、小さな川を隔て太鼓橋の向こう長善寺の門前にある
 
   
3-2 正八幡神社(窪野)  松山市窪野町 TOP  

  地図   
  北緯33度44分06.41秒 東経132度51分21.39秒

  自転車は、最後の登り坂約一キロ足らずを、押して登る。

 
神名石 正八幡大神 1884年 8月 明治17 64才

 正八幡神社のある窪野町は松山市の南の果て、夏は蛍が飛ぶ清流の渓谷の町です。

 社は日尾八幡から約三里(12キロ)、三坂方面県道207号から、窪寺跡というはっきりした標識の分かれ道を山へ向って一キロ足らず。自転車は押して登る急な坂。200メートルも押しただろうか、左手に小さな祠があって、そこに一メートル足らずの石碑があり「一千年祭」と立派な文字が彫られていました。

 米山憑いた私の目には、この辺で立派な字を見ると全部米山に見える。まして碑に書かれた日付けは、明治31年8月とある。米山78才、米山の円熟期だ。

こんな人目に付く場所に、米山の石文が誰にも気付かれずに存在するのは考え難い。しかしこの祠は、平成11年土地改良工事で天神社と谷田社が合祀移転されたとある。ならば、この小さな碑は、人目につかない田んぼの畦みたいなところに埋もれていたとしても不思議はない。明治31年(西暦1898年)に千年の歴史があったと言えば、延喜式が定められた905年より更に以前から歴史を持つ由緒ある神社だ。

 すっかり興奮した私は、早速私の書の師匠であり、米山顕彰会の事務局次長でもあるT氏に電話をしました。T氏にとって私は、たった一人の愛弟子です。ご多忙の中、車で同行して下さったが、一目見るなり「違います」と言われる。そう言われて見ると、米山にしては上手過ぎる。

米山先生、私は決して先生が下手糞と言うのではありません。私の先生に対する忠誠心をにべもなく否定されて、鼻白んだのであります。

ああ~がっかりした。

 

日暮れ道 腹はぺこぺこ 吊るし柿

 

神名石 これは誰が見ても米山

私が米山と大騒ぎした石。
今見たら全然違う。
 
   
3-3 勝山天満宮 松山市久谷町 TOP  

  地図
  
北緯33度44分12.49秒 東経132度50分05.13秒

  自転車 平坦コース

 
神名石 天満神社 1887年 9月 明治20 67才

 「天満宮」と書かれた神名石の文字の配置が不自然なので、よく調べたら石の右肩が後に欠落した物でした。裏に氏子の名前が連名で書かれているのですが、その名前が欠けていましたから間違いありません。

 ここは、丸山神社、葛掛五社神社と連なる久谷川の沿線にあります。近くの旧坂本村から登る急な旧三坂峠の道は、今は遍路道として歩き遍路を時々見かけるだけになりました。

 ここには坂本屋という遍路宿がありますが、今は形だけを留めて観光名所みたいになっており泊まれません。

 私は一度自転車で通ったことがありますが、この遍路道は絶対にお勧めしません。

 後一キロになってからが大変。戻るにしても急な坂道は滑って却って危険。まさに自転車を担いで登るような五体投地の道です。この道は猪に任せましょう。

 

 しし脅し どんと一発 三坂越え


. 神名石の右肩が欠けていました。
 二度と壊れないように、がちがちに固めた土台。


 
坂本の遍路道脇にある、昔の遍路宿坂本屋。

 
   
3-4 三島神社(東方) TOP  

  地図   北緯33度45分48.26秒 東経132度49分14.44秒

  自転車 平坦コース

 
漱石 奉献 1889年10月 明治22 69才

県道松山三坂線207号と平行している旧道を小村町から左へ入ると、一キロ足らずで三島神社(東方)が見えます。

 米山が奉献と書いた嗽石の横に、お宮の由来を書いた紹介文と一緒に、米山の紹介がされていました。

 偶然見付けたのですが一世代前の神名石がありました。お宮の西側旧街道に面したブロック塀に隠れるように、高さ1メートル70位、30センチ四方に綺麗に四角に面取りされた御影石に「三島神社」とはっきり読み取れる文字が立派な楷書で書かれていました。塀と碑の間に蜘蛛の巣が張っていて、やっと体が入る隙間に体をよじ入れるようにして碑の横の文字も読んだら、明治十五年午年九月武智勘造建立。石工松山丹生谷為二郎と書いていました。 明治15年と言えば、米山が明治13年に例の「鳥舞・魚躍」の注連石で世間の賞賛を浴び、デビューしています。目下売り出し中の米山を差し置いて、晴れの神名石に書を残した主は誰だろう。重信にある三島神社の米山書の神名石と大きさは違いますが、私には非常に良く似た字に見えます。

  小春日の 野に米山の 石訪ね



米山書(奉献)の漱石

引退した、先代の神名石

大正四年、御大典記念のときに建立された現在の神名石
 
 
3-5 葛掛五社神社  松山市奥久谷  (かつらがけごしゃ神社)  TOP

  地図   
  北緯33度43分01.29秒 東経132度50分25.44秒

  自転車 平坦コース

 
神名石 葛掛五社神社 1890年 9月 明治23 70才
常夜灯  同上  同上  同上

 二年前久万に自転車で行ったときここを通り、葛掛五社神社と書かれた神名石を写真に撮っていました。当時米山のことは、あまり知りませんでしたが、この伊予の青石も書も非常に印象に残る立派なものだったからです。だから今回ここの場所はすぐ分かりました。

 ここの鎮守の森は森全体が、松山市指定天然記念物になっています。面積は神社の裏一帯ですからそれほど無いのですが、樹木の種類は松山市の城山に次いで豊富と言われています。樹齢三百年を越す大木を数多くあります。

 イチイガシ、ウラジロガシ、カゴノキ、ヤブツバキ、その他ラッパ形の葉を生ずるイチョウなど、今では全国的に珍しい物もあります。かつて縄文の時代に繁茂した物もあるのではないでしょうか。

 自転車で平坦な道はここまでで、ここからは自動車でも大変な急な坂道を2キロほど押して登ると、33号線の中腹に出ます。

 縄文の 風が薫るか 葛掛(かつらかけ)

道路からすぐ目につく神名石

常夜灯 「奉」

葛掛五社神社の川下約300メートルにある安政年間の物と思われる常夜灯。米山とは違うが、同じ文字が徳川神社の常夜灯にもあるし、似た字を広田の三島神社でも見た。気になる字である。
 
 
3-6 丸山神社  松山市久谷 地元の人は金比羅さんと呼んでいる TOP  

  地図   
  北緯33度44分31.19秒 東経132度49分33.83秒

  自転車 平坦コース

 
神名石 丸山神社 1897年10月 明治30 77才

丸山神社は、札所四十六番浄瑠璃寺、四十七番八坂寺から近く、遍路道の近くにあります。

 神社から二キロ足らず北方向へ下ると、市営のある特老施設があります。帰りにそこへ知人の見舞いに行って不思議な書を見ました。

 廊下に展示している、入居者の作品の一つです。半紙に「いぬ」と二文字だけ書かれ署名も何もないから、誰が書いたか分からない。

 無名の入居老人が、リハビリを兼ねての書道でしょう。不自由な手で生まれて始めて持った筆で書かれたと思われる紙の上には、一生懸命上手に書こうとする気迫が紙全面に漲っているが、なんの衒いもない。これ以上下手には書けないと思える白と黒の空間は、異様な芸術空間を作っているが、作為のかけらもない。しかし一緒に入所出来ずに残してきた「いぬ」に対する愛惜の情が痛いほど伝わる。

 米山の書を見て心が洗われているのか、私の感性も少なからず湿りを覚えました。

 米山は、このような飾らない感性を共有出来る人達に支えられたのでしょう。

 

 雲一つ 笠の代わりに 遍路道

 

私の心をしめらせてくれた、神名石。

丸山神社正面。
神名石は、右の灯篭の陰に隠れるように見える。
 
 
3-7徳川神社  松山市津吉町 TOP  

  地図   北緯33度46分07.38秒 東経132度50分35.45秒

  自転車 平坦コース

注連石 大順・成徳 1898年 7月 明治38 78才

 最初に鳥居の文字「大順・成徳」を見たとき、「あれっ?」と一瞬我が目を訝りました。私にとってこれまで見た米山は太く豊満な書ですから、楊貴妃が西施になったような戸惑い・・・。もう少し具体的にいうと、全体に字が細っそりとしているのです。

 文字が細い故でしょうか、「大順成徳」の字句から恭順をイメージし、大政奉還を連想しました。

 しかしこれは私の思い過ごしだったようで、やはり徳川神社の「徳」を用いた成語と解釈するのが、素直なようです。

 後に伺ったのですが、「この地方は昔徳川村と言ったので徳川神社と呼んだ。徳川幕府が出来たとき津吉村と改名した。しかし神社の名前はそのまま残った」ということです。

 因みに、全国で徳川神社というのはここだけだが、徳川家とは関係無いそうです。

 時の権力者の字を名前から避けるのは、忌み名と言って中国でもあります。例えば、浙江省の寧波市。遣唐使がここに上陸して西安へ向かった唐の時代は、「明州」という都市だったのですが、明になって寧波と改名しました。

 中国四大美女品定め

 楊貴妃と 呼ばれデブちゃん 目を細め

 眉ひそめ 西施のようと 冷やかされ

 王昭君 チップをケチって 匈奴行き

 虞美人が 後ろ髪引き 駒いかず


注連石 右 「大順」。
本殿と拝殿は、奥の鳥居の向こう。

注連石 左 「成徳」

注連石の手前、正面の鳥居と神名石。
正面の道を道なりに西へ行くと、二キロ程で三島神社(東方)に出ます。
 
 
4-1 惣河内神社  東温市河之内 TOP  

  地図   
  北緯33度46分55.34秒 東経132度57分45.54秒

  自転車 行きはやや困難 帰りは理想的な下り道

 
常夜灯 長明灯 1882年10月 明治15 62才

 先日高校時代の同窓会があったとき、昔私の後ろの席に座っていたかずちゃんが「実家に米山の灯篭があるよ。幟旗も最近出て来たよ」と言います。かずちゃんの実家は、この惣河内神社でした。翌日早速行きました。

かずちゃんは、当時此処から横河原の駅まで木炭車で30分、松山まで坊ちゃん列車で一時間弱、更に市内電車で10分かけて、松山東高校へ毎日通ったそうです。

明治の俳人松根東洋城が、明治27年にここで一畳庵という庵を結び1年間滞在しました。その後も惣河内神社の人達とは深いご縁があり、東洋城が昭和39年88才で東京で亡くなったときは、かずちゃんが最後まで身の回りのお世話をしたそうです。

 

春秋冬 冬を百日 桜かな  東洋城

一畳の 庵の主に 散る桜  けん

灯篭 左 「長明灯」

灯篭 右 「長明灯」

松根東洋城が寄留した一畳庵
 
   
4-2 徳威三嶋神社  東温市野田1  TOP

  地図   
  北緯33度47分29.78秒 東経132度50分33.81秒

  自転車 平坦コース

 
鳥居 龍飛・鳳翔 1887年10月 明治20 67才

 

 正確な記憶ではありませんが、この神社の前の道が新しい国道11号線として整備されてから、30年近くなるはずです。それまでは、この辺はど田舎でした。道路の整備後郊外型大型店舗や外食店が立ち並び、神社の周辺も高級住宅街になりました。

 このお宮も、拝殿にサッシが入り、常設の神前結婚式場みたいになっています。道路も、整備された前の公園も多分元の社領でしょう。

 都市化の波から取り残されて寂れる神社が多い中で、ここは周囲の都市化とうまく融合している神社の一つです。

 ここには非常に珍しい物があります。それは米山が平仮名で書いた三十六歌仙の扁額です。宮司さんのお話では、「皆さんが高い関心をお寄せ下さるのは有り難いのですが、ここは本質的に神社なので、保管と公開の方法については今考慮しています」とのことでした。

 参道も 森も車に 道譲り

 

米山の書がある鳥居から拝殿を望む.
右「龍飛」 左「鳳翔」。

国道から神社を遠望.
周辺も綺麗に整備されている.

拝殿の奥、中殿に飾られている米山筆三十六歌仙扁額の一部。通常は中殿には鍵が掛かっている。
 
 
4-3 岡八幡宮  東温市西岡  TOP

  地図   
  北緯33度48分12.23秒 東経132度19.54秒

  自転車 平坦コース

 
神名石 岡八幡神社 1890年10月 明治23 70才

 昭和37年から昭和50年にかけて、岡八幡の前の旧11号線は仕事でよく通りました。昭和39年のオリンピックを目前に控えて、昭和37当時は「日本の道路は信じられないほど悪い」と世界銀行の調査団報告にも載せられていたように、この辺はまだまだ未舗装で洗濯板の「酷道」でした。そのころこの「岡八幡宮」の神名石は道路脇田んぼの中にあり、非常に目立った存在でした。今は道路そのものが、旧道の裏道になって周辺に家が立ち並び少し探しました。

 すぐ見つかったのですが、昔の石と石も場所も違う。丁度年配の男性が居たので尋ねたら、古い石は上のお宮に保存しているとのことでした。

 「大分費用が要ったでしょう」と貧乏たらしい質問をしたら、「石はこの部落の中にあった物を使ったし、運ぶのは皆で運んだから、文字を彫った金が少し要ったくらいかな」と軽い返事でした。彫りも機械だから、そんなに要らなかったのでしょう。

 風雪に くたびれ宮石 楽隠居

二代目神名石 「岡八幡宮」
後ろの森が岡八幡のお宮

二代目碑の背面
「平成十七年 三月 再建」

初代神名石 「岡八幡宮」
山上、本殿の右に鉄柵で囲まれて保存されている。
 
 
4-4 吉井神社(井内)   東温市井内 TOP  

  地図   
  北緯33度45分18.48秒 東経132度55分23.62秒

  自転車は少し困難

 
神名石 吉井神社 1980年 8月 明治23 70才

11号線東温市則之内の信号の分岐点から、今は県道210号線になっている井内川沿いの谷へ入いり、約20キロで札所四十五番岩屋寺を経て美川村へ抜けます。米山の頃は、道後平野に住む人達にとって、この道が久万方面へ行く最も近道でした。古くは上黒岩遺跡のある美川村に住んでいた縄文の人達も利用した、交易の道だったはずです。

 緩やかな山道を、自転車で一時間程だらだらと登ったら、井内(いうち)のバス停があり、そのすぐ右手の山に吉井神社(井内)がありました。

 小春日の谷間は、自転車の汗が引くと肌寒い。

 参道の入り口に一軒の農家があり、年配の男性が焚き火をしていたので、私もあたらせて貰いました。世間話をしていたら、男性が「吉井神社の石碑の文字は、私の祖父が彫ったものだ」と言います。庭先で遊んでいた可愛いお嬢ちゃんも、話の輪に加わる。お孫さんで麓の志津川というところから、丁度週末で遊びに来ていたのです。

 ご両親の許しを得て、一緒に写真を摂ろうと誘い、神名石の横に立って貰いました。

 碑の裏を詳細に観察すると、左下に石師宮内惣次郎と署名がありました。 

 

陽だまりに 昔話しの 焚火かな

 

石師宮内惣次郎の五代目、綾乃ちゃん十一才

焚き火を囲んで、三代目と五代目
 
 
4-5 西岡天満宮  東温市西岡 TOP  

  地図   
  北緯33度47分57.98秒 東経132度51分34.89秒

  自転車 平坦コース

 
道標 左西岡天満宮道 1890年10月 明治23 70才

 

 今は境内にある道標ですが、出来たときは当然道路にあったでしょう。それが何処かですが、西岡天満宮を左に見る位置だとすると、日吉神社から重信の方へ向かうところに、金比羅街道があったとして、そこに在ったのだと思います。

明治に入って金比羅街道が整備されてバイパス化し、お宮のある一帯はローカル化したのでしょう。だから分かれ道に道標が出来たのではないかと想像します。今は小さなお宮ですが、昭文社の広域詳細地図に載っています。この地図は、神社仏閣が、山の中の小さな物まで網羅されている優れ物です。

その後昭和に入って旧11号線が出来、平成に入って11号線のバイパスが出来、ここは自転車で探すのも難しいほど辺鄙な場所になりました。

  道標 ひっそりと立つ 藪の中

道標 「左西岡天満宮」

西岡天満宮の小さなお社

境内にある筆塚
 
 
4-6 三島神社(重信)  東温市樋口 TOP  

  地図   
  北緯33度48分19.89秒 東経132度52分53.23秒

  自転 平坦コース

神名石 三島神社 1892年10月 明治25 72才
注連石 天地一指・至誠無息  同上  同上  同上

 鳥居の前で、犬の散歩をしていて犬に逃げられたという男性に会いました。

 「犬は戻るなと言っても戻ってきますよ」と言う私の言葉に、「それもそうですね」と私との雑談に付き合ってくれました。

 この神社は、志津川、西岡、樋口の三部落にあったお宮が合祀された村社だそうです。一寸面白かったのは、(面白いと言っては悪いかな・・・)約40年前、この近くにあった米山の道標が何者かに盗まれたというのです。昭和25年に山本発次郎がこの辺を訪れて、米山ブームに火を付けています。昭和37年頃この辺で国道11号線の大掛かりな整備工事をしています。石の柱を持ち去った犯人は、工事力を持った人でしょう。その時はそう思いました。

 雑談をしているうちに、犬もいつの間にか男性の横で尻尾を振っていました。

 後で調べたところ、注連石の字句「天地一指」は荘子の斉物論に、「至誠無息」は中庸の右第二十五章にありました。(至誠息むなしは、至誠が永遠であること)。天地一指は、客王神社に同じ字句がありますので、そちらで紹介させて頂きます。

  休耕田 犬と童が 駆け回り

  実はこの道標の盗難話には後日談があります。数ヶ月後偶然この近くの斎院の木交差点で、「松山札辻より四里」と書かれた道標を見つけました。飄逸な文字は、私には米山を思わせました。何故か「辻」の文字のところに傷があり、明らかに補修された跡があります。そこで私は、こう推理しました。

「道路工事の支障移転のとき誤って折損した。その補修と移転の為の期間、暫く衆人の目に見えない所に置かれた。それを盗難と誤解されたのではないか」

 だとすると、米山新発見です。あくる日早速東温市の歴史資料館を訪れました。

 残念。

 資料館の由来書によると、寛保元年(1741年)藩命により、水谷半蔵祐筆書と、はっきり書かれていました。なお後年「散逸していた物を江戸七郎が執念で探し求め接着した物である」と傷の由来も明記していました。

 

数十メートル離れた国道から遠望できる大きな神明石 

注連石「天地一指・至誠無息」
私が行ったときは、まだお正月の注連飾りが残っていた。

鳥居 右 「受天」
レプリカ

鳥居 左 「百禄」
レプリカ
斎院の木交差点にあった、「松山札辻よ四里」と書かれた道標
 
 
4-7 天満神社  東温市志津川 TOP  

  地図   
  北緯33度48分02.43秒 東経132度52分30.56秒

  自転車 平坦コース

神名石 天満神社 1892年10月 明治25 72才
注連石 楽天知命・万古清風  同上  同上  同上

 注連石の文字「楽天知命」は易経の中にありました。「旁行而不流、楽天知命、故不憂」(自由に生きて流されず、天を楽しみて命を知る、故に憂えず)。旁行は辞書の直訳では「のさばる」とあまり良い意味の解釈ではありませんでしたが、ここでは、自由に生きて流されずという解釈でいいのではないでしょうか。まさに米山の生き方です。

 唐の詩人白居易の号、白楽天はこれからとったものです。

  天命を 知れど不惑の 道遠し

神明石 「天満神社」

注連石 右 「楽天知命」

注連石 左 「萬古清風」

私が行ったときは、丁度正月の門松が飾られ、お神酒が供えられていました。
 
 
4-8 三島神社(川内)  東温市則之内 TOP  

  地図  
  北緯33度47分27.18秒 東経132度55分02.64秒
  
  自転車 平坦コース

 
神名石 三島神社 1894年11月 明治27 74才

 

 ここには、非常に珍しい物があります。下の写真にも掲載していますが、木造の狛犬です。東温市指定有形文化財になっています。隋身門のガラスケースの中に入っているのですが、ケースに顔をくっつけて見飽きぬ可愛らしさがあります。

 横の木造隋身立像が県指定有形文化財。本殿は国指定重要文化財。この三間社流造銅葺の美しい勾配の写真は、私の手に負えなかったので、東温市にお願いして、市のホームページの写真を転載させて頂きました。

 ワンちゃんが 七百年の 宮の守

  神名石 「三島神社」
 狛犬 木製の狛犬は珍しい

 東温市指定有形文化財
 延文五年(1359年)
 同上 対になっている
 木造の狛犬と隋身立像がある隋身門
  本殿 国指定重要文化財
  南北朝時代(1336年~1392年)建立

  東温市のホームページから許可を得て転載
  県指定有形文化財
  木造随身立像 狛犬の横に立っている

  東温市のホームページから許可を得て転載
 
 
4-9 吉井神社(吉久)  東温市吉 TOP  

  地図   
  北緯33度47分13.30秒 東経132度53分46.30秒

  自転車 平坦コース

 
神名石 吉井神社 1890年 8月 明治23 70才
注連石 独清・泊如 1898年 9月 明治31 78才

 私は山の人達に少し誤解していることがありました。それは平家の落人伝説などから考えて、山の人達はこれまでどこかで生存競争に敗れて、山奥に住むようになったと思っていたのです。しかし、「野に下る」「下野する」は全く逆です。野に下るのは、政権抗争に敗れることです。

 狩猟経済で、木の実と獣を食料にしていた石器時代から縄文時代の人達にとって、山こそ楽園でした。ここから直線距離で6キロほどの上黒岩というところに縄文時代の人達の住居遺跡があります。最初にここ吉井に住んだ人達は、「下野」して、ここに新天地を求めた人達ではなかったでしょうか。

 今、吉井神社から高速道路の橋桁を挟んでその昔のユートピアが近く望めます。この一帯を含む東温市は、松山市のベッドタウンとして、新興の住宅都市を形成しています。全国の高校で軒並み志望者数が定員を満たしかねている中で、ここ東温高校は今年も1.5倍の競争率でした。平野の土地高騰と、道路整備、自動車の普及、郊外型店舗の進出が生んだ現象です。

 ここは、古くは縄文と弥生の文化の接点であり、今も常に新しい時代の波に洗われています。

 小春日や 石鎚山も 鼻の先

神明石 「吉井神社」

注連石 右 「獨清」

注連石 左 「泊如」

神明石、注連石、お社全景。
あれ~っ!失敗。
左隅にちょこっと入っているのは、私の自転車。
 
 
4-10 熊埜神社  東温市南方 TOP  

  地図   
  北緯33度47分34.38秒 東経132度54分15.36秒

  自転車 平坦コース

 
神名石 熊野神社 1896年 9月 明治29 76才
神名額 熊野神社  不詳  不詳  不詳

 この神社の前を、県道23号線が東西に通っています。松山~高松へ向かう11号線と、松山~大洲方面へ向かう56号線の間20キロ強を、バイパスのように結ぶこの道は、古くはケーブルルートです。ケーブルルートとは、戦前の無装荷搬送ケーブル方式により作られた長距離電話網の、ケーブルが敷設された場所です。昭和15年には東京からハルピンまでの長距離回線が完成していました。この道は古くからあった道ですから、沿線には神社が多く、ここも米山の石文がある神社だけでも、沿線には、熊野神社、吉井神社(吉久)、徳川神社、(津吉)、三島神社(東方)、大宮神社(荏原)、高忍比売命神社(徳丸)と続いています。現段階(平成20年3月)では未確認ですが、伊予市大平の新田神社でも米山の作品でないか思われる物が見つかっていますが、ここもこのケーブルルートです。四国のケーブルルートの最終点は、佐田岬です。佐田岬の根元瀬戸町でも米山の作品が見つかっています。

 米山は大洲に何回か行っているそうです。だとしたらこの大洲を経由するするケーブルルートの沿線の神社に、未発見の石文が残っていても不思議はありません。いつか自転車で、それを探してみたいと思っています。

 
春風や 歴史街道 石訪ね

 

神名石 「熊野神社」

神名額 「熊埜神社」
 
 
4-11 三島神社(関屋)  西条市丹原関屋 TOP  

  地図  
  北緯33度52分27.49秒 東経133度00分11.67秒

  自転車 非常に困難 1 山之内からの県道152号線は、道が険しい
                2 11号線は、交通量が多く道が狭い
                3 北条今治を経由すれば平坦だが、距離が70キロくらいになる

神名石 三島神社 1896年 6月 明治29 76才

  国道11号線から重信川を上流に上る県道152号があります。しかしここは自動車が走れる道ではありません。砕石工場などがある途中までは、比較的良い道路ですが、えひめ酒だる村というキャンプ地を越えてからは、猪道です。実際河原で猪を捌いている人に出会いました。

曲がりくねった細い山道の窓峠の途中に、露出した漣痕化石という岩がありました。7000万年前に大きな地殻変動があってそれが露出した物です。地球の歴史規模でみれば、今も変動は続いているでしょうが、ここは太古からの安定した交易ルートだったはずです。関屋という地名もそれに相応しい。ある時期ここに関所があったのと違うでしょうか。した交易ルートだったはずです。関屋という地名もそれに相応しい。縄文時代の人の住んだ山里にも一番近い。この道に繋がる吉井神社のある井内から、又は総河内神社のある河の内からは、四国山脈の久万高原への近道です。この道は、縄文の山幸彦と弥生の海幸彦を結んだ道でもあったでしょう。

道前、道後の呼び名の由来ですが、都の人から見たら手前の関屋一帯は、道前であり、この道を越えた山の向こうは道後でした。私の想像ですが、当時の伊予の主要街道はここから高縄さんの裏の山道だったはずです。海岸の平地は湿地で通れなかったでしょうから。

 

神名石 「三島神社」

 米山ではないが「奉献」
 奉献の「献」はどこのお宮にもあるが、全部と言って過言でないほど、書き方が皆違う
 実は私の本名だが、本当の文字が分からない。
 

重信川の最も奥深い上流で、猪をさばいていた。
男性の足元に横たわっているのが、大猪

後ろの山全体に、7000万年前の波の痕が化石化して露出している。
 
 
5-1 三島神社(吉藤)  松山市鴨川1 TOP  

  地図   
  北緯33度52分01.40秒 東経132度46分02.47秒

  自転車 平坦コース

 
注連石 上世神皇道・萬機先神事 1880年 8月 明治13 60才
常夜灯 当邨中  不詳  不詳  不詳

 ここから道後は、直線距離なら2キロありません。電車線路へ出て城山を迂回するような、大きな道路ばかり通ると、10キロ以上あります。松山城が出来たのが、1602年ですから400年前はこの大きな道路はありませんでした。松山市内には、古い神社は殆どありません。米山の石文が残っている古い神社のある古い細い道を線で繋ぐと、現在は一見脈絡がないような、徳丸の高忍比売命神社から別府の福水神社、ここ三島神社(吉藤)、伊台の客王神社、五明の美津気神社、河中の天一神社まで、自転車なら自然に行けます。それから見るとこの道は、松山城が出来る以前の生活圏を結ぶ道だったのでしょう。

 神社の付近は、繁華街からそう遠くないのに、田舎と古い旧家が残った静かな町です。神社の前の一軒の農家で道後へ抜ける道を尋ねたら、丁度収穫した伊予柑の箱詰めをしていた手を休めて、沢山の蜜柑を頂きました。

 お遍路に 笑顔をおくる 蜜柑もぎ

注連石 
「上世神皇道・萬機先神事」

常夜灯の台座部分に書かれた 「当邨中
同上 一対
境内にある、左近の桜

境内にある、右近の橘
 
 
5-2 伊予豆比古命神社 松山市居相2 (いよずひこのみこと神社) TOP  

  地図   
  北緯33度48分21.53秒 東経132度46分23.88秒

  自転車 平坦コース

 
注連石 龍遊・鳳舞 1882年12月 明治15 62才

 米山が神官をしていた日尾八幡神社の神様は「伊予比売命」(いよひめのみこと)と呼ばれ伊予豆比古命(いよずひこのみこと)とはご夫婦でした。伝説によると、昔小野谷字小野峠に一緒に祀られていたのが、あるとき洪水で流され、男神の伊予豆比古命は天山村の縦淵流れ着き今の居合に遷られた。女神の伊予比売命は窪田村に流れ着いて今の日尾八幡神社へ遷られたそうです。

 長い別居生活ですが、明治の神社合祀令から漏れたのは、お二方ともあまりに大物になっていたからでしょう。

 毎年旧暦の1月7、8,9日の三日間行われる椿祭りは、伊予路に春を呼ぶお祭りとして、全国各地から50万人を越える参拝客で賑わいます。

 裏参道まで入れたら、一キロほどの参道の両脇に800を越す出店が並び壮観です。私の若い頃は、おたやん飴と言って何処を折ってもお多福の図柄が出てくる縁起飴が人気だったのですが、今はあまり見なくなりました。

  おたやんの 飴が伊予路に 春を呼び

 

愛称「椿さん」で呼ばれているお宮の正面。

 神社に向かって左側にお旅所があり、そこに一対の注連石があります。
 これは左側にある「鳳舞」。
 これは右側にある「龍遊」。
 両方とも、最近移されたものだが、手違いで左右の配置が逆になっていると聞いています。

 かなり交通頻繁な道路を隔てていること、逆光になること、石が黒ずんでいることから、写真がうまく撮れない。
 実物を見にきなさいということでしょう。
 
 
5-3 井出神社  松山市北立花町 TOP  

  地図   
  北緯33度49分51.71秒 東経132度46分28.20秒

  自転車 平坦コース

 
注連石 上善・如水 1883年 8月 明治16 63才

「上善・如水」は老子にありました。「上善若水、水善利万物而不争、処衆人之所悪」即ち、最高の善は水の如し。水は万物を利して争わず、衆人の厭う低き所に身を処する。

 しかし、水が人の嫌う低き所を流れたのか、人が水はけの悪い低い所を嫌ったのかは微妙です。

井出神社のすぐ横を奥道後に源を発する石手川が流れています。ここを二キロも下ったら、別ルートで道後平野を潤してきた小野川、重信川とその名も出合いという名の場所で出合い伊予灘に注いでいます。一つの河の治水でも大変です。三つの暴れ河を同時に治めるのは、当時の土木技術では困難を極めたでしょう。それで石手川の堤防は、お城下側を守るため北側即ち市内の側を高く、南の反対側をわざと低く作りました。

そして、土手から外を「永代川」とする代わりに、「無年貢地」として年貢を取りませんでした。

井出神社から、石手川の土手を挟んですぐ向こう側に「若宮神社」があります。ここは井出神社の前のお社です。出水を避けて此処へ遷宮しました。

このあたりで水は、善というよりときに災いの象徴でした。

 小春日や 上善の水 石手川

 

正面から見た拝殿、手前は上善如水の注連石

注連石 右 「上善」


注連石左  「如水」
天然記念物 ニホンタチバナの木
 
 
5-4 高忍比売神社 伊予郡松前町徳丸 (たかおしひめ神社) TOP  

  地図   
  北緯33度47分10.84秒 東経132度45分45.97秒

  自転車 平坦コース

 
神名石 延喜式内・高忍社 1900年 1月 明治33 80才
神名額 素鵞社  不詳  不詳  不詳

 ここは安産の神様です。南に一キロも離れていない所に、宮の下という地名があり、当時電電公社の宮下電話中継所という施設がありました。熊野神社でも書いているので重複しますが、この前の県道23号線を、長距離電話回線が通っていて、その中継所です。私事になりますが、26才のとき私はここで勤務をしたことがあります。新婚で、長女が生まれたのもここでした。医者の勧めで、予定日が来ても産気つかない臨月のお腹を抱えた妻の手を引いて、この辺を散歩したことがあります。お陰で妻は安産でした。

 その妻も去り、先日三回忌を終わりました。

 妻の手を引いて歩いた当時は、舗装されることなど予想もしなかった田舎の砂利道も、今は畦道まで舗装され、高架の高速道路も走っています。私が勤務をした電話中継所は、敷地の中に社宅があったのですが、今は跡形もありません。長女の名付けに参った近所のお宮伊曾能神社は、式内社として今もあります。

 泣くために お宮参りか 老いの春


神名石 「高忍社」

神名額 「素鵞社」米山書

上の神名額は、本殿に向かって右の、この神楽殿の中にあります。
 
 
5-5 客天満宮(祝谷)  松山市祝谷3 TOP  

  地図   
  北緯33度51分12.45秒 東経132度46分43.69秒

  自転車 平坦コース

 
注連石 多福・聿懐 1891年 8月 明治24 71才

 このお宮のある祝谷一帯は、松山では戦後最初に住宅化した一角です。愛媛大学、松山大学、松山北高校、勝山中学など学校が多く、文教地区が近いこと。そして何より道後温泉が近いということです。道後温泉までは自転車で10分も掛かりません。散歩がてら歩いても行けます。

 住宅化の結果でしょうか、気をつけないと、見落としそうなほどこじんまりとしたお宮です。土地の人はお旅所と呼びます。お祭りとき松山神社の神輿がお宮から出た後、ここで休息するからこのように呼ばれるのですが、菅原道真が筑紫へ流される途中ここを宿にしたという言い伝えもあります。

 そこで注連石の文字の意味ですが、聿懐の「聿」は辞書によると、筆を持っている象形で、これから申し述べるという説明がありました。「聿」という字にはあまり深い意味はないようです。天満宮ですから、ここで言う聿懐は、道真公を偲ぶような意味でしょうか。 

 東風吹けど 帰らぬ人の 旅の宿

こじんまりしたお宮

道路から少し入った注連石。

注連石 右 「多福」
注連石 左 「聿懐」

 芸予地震で注連石が傾いたので、補強工事で掘り起こしたら、以前道路工事で埋められた漱石の破片が出て来た。
 
 
5-6 大宝寺  松山市南江戸5 TOP  

  地図   
  北緯33度50分18.16秒 東経132度44分40.89秒

  自転車 平坦コース

 
墓石 白石倍由夫妻墓 1892年 2月 明治25 72才
墓石 白石由己夫妻墓 1901年 8月 明治34 81才

 大宝寺は、その名も大宝年間(701年~703年)に越智玉興によって創建され、本堂は伊予最古の木造建造物として国宝になっています。因みに愛媛県の国宝建造物は、この他に石手寺の仁王門、大山寺の本堂があります。全国には、国宝建造物が無い都道府県が18あるそうですから、このお寺の国宝の重みを改めて感じます。

 米山が墓誌を書いた白石夫妻の墓碑は、その本堂の右手裏にありました。墓石は新しく立て替えられ、残念ながら、古い墓碑はその陰になって文字もよく見えませんでした。

 2006日本書芸院展役員展特別展図鑑に、白石由己夫妻墓誌の拓本が載っていましたので、その書き出しの一部を転載させて頂きます。

 「明治三十一年4月一日白石君由馬没往歳余銘君父碑而今又表君墓・・・」

 由馬とあるのは、由己氏の通称です。

 

 春雨や 国宝伽藍 大宝寺

 

 国宝大宝寺の石碑

新しいお墓の陰になり、写真が写し難かった。
お墓は、本堂の右横裏にある。

 真ん中の墓石が米山の書。

国宝の本堂。
 
 
5-7 大山積神社  松山市石手2 TOP  

  地図   
  北緯33度50分41.51秒 東経132度48分01.87秒

  自転車 平坦コース

神名石 大山積神社 1885年10月 明治18 65才
注連石 無為・而尊 1895年10月 明治28 75才
常夜灯 豊・暉 1897年 1月 明治30 77才
鳥居 記年  同上  同上  同上

 この神社の総本山は、今治市大三島町宮浦にある大山祗神社です。

 少し米山とは話題が離れますが、大山祗神社があるしまなみ海道のことを書かせて下さい。

 しまなみ海道は、自転車が走れる唯一の高速道路です。とは言っても実際に自転車が走れるのは橋の部分だけですが、それだけでも素晴らしい。今治から尾道まで全長約80キロ。行き方は色々ありますが、家族連れなら車で適当な所まで行って、そこでレンタルの自転車を借りるのも一つの方法です。松山から直接自転車で行くのは、尾道まで往復260キロありますから、3泊4日くらいの計画でしょう。尾道から呉、広島、宮島。帰りは広島港から高浜というコースもあります。松山~尾道130キロ。尾道~広島110キロ。広島~宮島往復約40キロ。合計280キロ。松山市内の走行を入れて約300キロの旅になります。

 しまなみや 伊予路りんりん 春の風

地図   今治市大三島町 大山祗神社の地図 

神名石 「大山積神社」

灯篭 「豊」

]
灯篭 「暉」
 
 
5-8 黒住神社  松山市松前町2 TOP  

  地図   
  北緯33度50分22.04秒 東経132度45分37.18秒

  自転車 平坦コース

 
注連石 養無・一誠 1895年12月 明治28 75才

 この神社は、松山城の西堀端に近い市の中心部にあります。門前に平成6年に建てられた創立110年記念碑がありました。逆算すると明治17年に出来たことになりましょうか。比較的新しい神社です。

 注連石の文字「養無・一誠」は、黒住教の教義の中にある言葉であることを、教団の方に教えて頂きました。意味は文字通り、「無を養い、誠を一とする」と解釈してよいようです。

 百科事典によると、教祖黒住宗忠が京都に創建した宗忠神社は勤皇倒幕運動の拠点になったとありました。米山も文久3年(43才)に上洛して勤皇志士と交わっていますから、この面で一脈通じるものがあったとしても不思議はありません。。

 以下は私の想像が加わりますが、「無」は老子の教えの根幹です。無を養い、陽気に生きることが肝要と教えた黒住教と、米山が好んで書いた老子の教えとも何か通じる物があったかもしれません。

 城山に 今日か明日かと 花便り

黒住教松山大教会所

注連石 右 「養無」

注連石 左 「一誠」
 
 
5-9 松山神社  松山市祝谷東町 TOP  

  地図  
  北緯33度51分12.05秒 東経132度47分09.秒

  自転車 平坦 コース   (地図の表示は常信寺となっているが、松山神社が正しい)
                   

 
注連石 大順・成徳 1896年 5月 明治29 76才

 子供の頃引き揚げて間もなく家が無くて、すぐ近くの常信寺にお世話になったことがあります。当時は、まだ電車道路に空襲の跡が残り、多くの人が住む家にも不自由していましたから、お宮は荒れ放題でした。雨の日などは、松山神社の拝殿はよい遊び場でした。今回57年振りにお宮に参って、綺麗になっているのに驚きました。

 拝殿のすぐ前で、庭師風の一人の男性が桜の木の手入れをしていました。ちょっと見せて頂いたら、枝が空洞になって折れそうなのを、竹で補強しているところでした。「昔この近くに住んでいたのですが、綺麗になりましたね」と言ったら、綺麗になったのはつい最近のことで、鬘と竹薮で参道に足を踏み入れることも難しかったそうです。この庭師風な方が、総代の能田道孝さんでした。

 能田さんが、「その木の鳥居は傾いていませんか」と私に問いかけられる。よく見たら心持傾いているようにも見えました。

 能田さんの観察によると、一年に一ミリ以下だが、確実に毎年傾いているそうです。鳥居の根元に薄くセメントを張り、それに生ずる小さな亀裂から傾斜を割り出しているのだそうです。更に言葉を継いで、「これは、宅地造成で山を削った為、地耐力が落ちたからです」と言われる。

 お天気の日は毎日来てお宮の手入れをしている、能田さんの松山神社に対する深い愛情と、地道な観察からの言葉は非常に説得力があります。

 ここの注連石に「大順・成徳」と書かれているのは、権現さんを合祀して、祭神が徳川家康であるから「徳」の字を取ったということも教えて頂きました。

 春を待つ 桜に添え木 宮の守

桜の老木に優しい目をそそぐ、総代の能田さん

問題の鳥居

 注連石 右 「大順」

注連 左 「成徳」
 
 
5-10 客王神社  松山市下伊台町 TOP  

  地図   
  北緯33度52分12.49秒 東経132度48分分09.85秒

  自転車は少し困難。

 
神名石 客王神社 1897年 8月 明治30 77才
注連石 天地・一指  同上  同上  同上

 このお宮のある伊台という町は、道後から約6キロ北の白水峠の近くにあります。この峠は、堀江、五明河中(奥道後から今治)、吉藤の街道と交わる交通の要衝です。現在は平地に自動車道路が出来て、ここは静かな山村住宅街です。

 注連石の「天地・一指」の出典は荘子の斉物論にありました。「天地一指也、万物一馬也」。少し高台になった神社の境内から、平和な伊台の里を見下ろしての心境ではなかったでしょうか。

 実は荘子が斉物論の中で述べている「天地一指」は、少し意味が違うようですが、米山は天地賛歌のような意味で使ったのではないかと忖度します。そうだとすると、三島神社(重信)の注連石が荘子の「天地一指」の後に、孔子の「至誠無息」と続くのもなんとなく納得出来ます。一般論的に言えば荘子は儒家の強烈な批判者で、二人の観点は水と油ですから、四字成語も組み合わせが作り難いと思います。

 近くに、薄墨桜で有名な西法寺というお寺があります。そこに米山の書「薄墨桜」があります。本堂の額に飾られているのですが、訪ねて拝見をお願いしたところ快くお許し頂き、写真も撮らせて頂きました。

 薄墨の 論旨かしこし 桜かな  虚子

 薄墨や 羊羹もよし 花もよし  けん

神名石 「客王神社」

注連石 右 「天地」

注連石 左 「一指」

地図
 西法寺の薄墨桜

明治25年、米山72才のときの書「薄墨桜」
 
 
5-11 多賀神社  松山市新立町 TOP  

  地図   
  北緯33度50分00.02秒 東経132度46分52.30秒

  自転車 平坦コース

 
漱石屋石柱 奉献・花山舎芸妓中 1899年 4月 明治32 79才

 

 私が16才のときですから、もう半世紀以上前この神社の裏の石手川を挟んですぐ対岸に「石鉄寮」という学生寮があり、私はそこから一キロほど離れた松山東高校に通っていました。

 当時は、井出神社のすぐ下に中の川という石手川の分水があり、そこに柳が植えられていて、ちょっとした色町になっていました。寮から学校までは軽い下り坂になっているのですが、そこを自転車で両手を放して疾走していて、思い切り転倒したことがあります。子供ですね、大した怪我もしませんでした。この辺はそんなことが出来るくらい長閑な所だったのです。

 米山がこれを書いた時は、それより更に半世紀以上前です。もっと長閑な場末の色町だったでしょう。石手川を背にしているので場末になっていますが、繁華街からも近く、色町として華やいでいたのではないでしょうか。この石柱はそこのお姐様方の心意気だと思います。

  春雨じゃ 濡れて行こうぞ 宮参り

漱石屋石柱 「花山舎芸妓中」

明治三十二四月建之

多賀神社
後ろが石手川
 
 
5-12 天一神社   松山市藤野町 TOP  

  地図   
  北緯33度53分38.88秒 東経132度51分54.93秒

  自転車 かなり困難 

 
注連石 敬神・愛国 1900年 5月 明治33 80才
鳥居 記年  同上  同上  同上

 この神社は、道後から国道317号線で、奥道後を経て今治に行く途中にあります。この国道は、平成11年に水ケ峠トンネル(2804m)が開通するまでは不通で、松山からは、このお宮の辺りから3キロほど行くと行き止まりでした。昔、峠の向こう玉川町に龍岡無線中継所というのがあったのですが、僻地在勤手当てが出るほど不便な所でした。今は、この国道はしまなみ海道を経て尾道まで行けます。

 ここから、松山寄りに一キロも行ったら、玉谷という部落の近くに若宮八幡神社が道路沿いにあります。小さな小さなお宮ですから注意しないと見落とすかもしれませんが、ここの神名石は立派です。またまた例によって、ガセネタを米山事務局に持ち込んだら「米山とは違うけど、米山に劣らない立派な字です」と慰めて貰いました。

 一月の山深い道に、聞き間違えたのでしょうか、季節はずれの鶯の声がしました。

 初鳴きや 首を傾げて 耳すまし

鳥居に記年の文字

鳥居 「氏子中」

「敬神・愛国」の注連石

昼なお暗い天一神社の本殿

地図
 317号線の道路脇にあった小さなお宮の神名石。
 やすらぎ系の心和む字です。
 小さなお宮ですが、地図には「八幡若宮神社」と載っていました。由緒あるお宮でしょう。
 
 
5-13 日招八幡神社  松山市保面西1 TOP  

  地図   
  北緯33度48分50.58秒 東経132度44分52.83秒

  自転車 平坦コース
 

 
注連石 文行・忠信 1904年 1月 明治37 84才

 孔子の教育方針の柱は、「読書」「実践」「誠実」「信義」でした。ここの注連石の文字「文行・忠信」は、論語に「子以四教、文、行、忠、信」とありました。

 「日招」の由来ですが、佐々木盛綱(鎌倉時代の武将、長門の守護)が元暦元年(1184年)この地で戦闘があったとき、勝利を目前にして日が暮れようとしている。そこで落日を招いて戦勝したという故事によるそうです。平清盛が、音戸の瀬戸の工事で落日を招き寄せた故事を思い起こさせます。まさに飛ぶ鳥をも落とし、落日をも招き寄せる権勢を象徴する物語りでしょう。

 国道56号線をよぎる立派な参道を持った立派なお宮ですが、残念ながら本殿は、近年不慮の火事で焼失してまだ復旧していません。

 古い参道には、往事を偲ばせる松の木が何本か残っています。

 行く秋や 手をとりあいて 松二本  子規

 日招きで 戻して欲しい 老いの春  けん

注連石 右 「文行」

注連石 左 「忠信」

注連石と門。
門の中央に小さく見えるお社が、焼失した仮の社殿。

国道56号線で、よぎられている参道。
車の向こうが、日招神社。
覆い被さっているのが、昔の松並木の松。

参道の一番手前から見た、日招神社。
一番奥の、こんもりした森の中にある。
 
 
6-1 宮内天満宮 伊予郡砥部町宮内 TOP  

  地図  
  北緯33度45分00.27秒 東経132度47分18.24秒

  自転車 平坦コース

 
神名石 天満宮 1884年 5月 明治17 64才

 このお宮から二キロも西へ行くと、七折れという所に有名な梅林があります。果実を採るのが目的ですから種類も多く、花も楽しめます。季節には、梅の実も格安で現地販売してくれます。

 ソフトボールくらいは出来そうな広い境内と、その境内に相応しい立派な神名石がありました。石工は分かりませんが、米山自身「ヨク刻ス」と満足の意を残している、原書に忠実な彫りです。 

 七折れの 梅に天神 宮参り

神名石 「天満宮」

天満宮の広い境内
 
 
6-2 大宮神社(砥部)  伊予郡砥部町大南 TOP  

  地図   
  北緯33度44分11.12秒 東経132度47分41.26秒

  自転車 平坦コース

 
注連石 無為・而尊 1889年11月 明治22 69才

「無為」は老子の教えの根幹をなす思想です。「無為無策」とか「無為徒食」とかあまり良い意味で使われない事が多い言葉ですが、老子は例え話でこのように説明していました。

 「木を植えて、ついたかどうか確かめるのは、無益なことだ。ゆすったり余計なことをすると、木は枯れる」と。つまり小賢しさと目先の欲望を戒めています。

 無為とは、私なりに、「することをして、後は成り行きにまかせる」と解釈しています。

 老子は、書いた物も残していませんし、孔子のように時の権力者に重用されたこともありません。しかし「有無相生ず」など弁証法的思想は、儒家の対極にあって中国思想の一方の大山脈を構成し、現代に光を失っていません。

 成り行きと 狸寝入りで 春を待つ


 
 
6-3 伊雑神社  伊予郡砥部町篠谷  (いざお神社) TOP  

  地図   
  北緯33度39分41.40秒 東経132度48分29.89秒

  自転車 相当に困難 

 
神名石 伊雑神社 1897年 2月 明治30 77才

 国道379号線を麓の砥部町岩谷口から6キロ程山登りをしたら、上尾峠に出ます。更に3キロ程山に向かって走ったら、玉谷小学校というバス停があります。更に脇道を篠谷方向へ2キロほど行ったら、伊雑神社があります。

 土地の人に伊雑神社と神社の名前で聞いても分かりません。篠谷集会所と言えば分かります。砥部町が出している緊急避難場所の標識も、「篠谷神社」となっていました。 お宮の下の空き地を整地して、小さな運動場になっています。

 明治30年にこの神名石を作ったときの寄付者名簿がありました。
 それによると、延べ27名の方が、合計38円50銭寄付していました。明治23年三熊野神社に米山が鳥居の文字を書いたときの謝礼は15銭でした。単純に比較は出来ないかもしれませんが、一つの数字です。
 因みに正岡子規の墓誌によると、明治30年代子規の日本新聞記者としての月給は40円でした。

 山の宮 ゲートボールに 春うらら

神名石 「伊雑神社」

この神名石を作ったときの寄付者名簿

神社の本殿
 
 
6-4 河内神社  久万高原町東明神 TOP  

  地図   
  北緯33度40分38.00秒 東経132度53分07.33秒

  自転車 非常に困難

 
神名石 河内神社、高正神社 1899年 3月 明治32 79才
注連石 大順・成徳  同上  同上  同上

 この神社の神名石は、向かって右に河内神社、左に高正神社と並べて書かれています。丁度農作業をしていた、六十年配の男性がいたので、二つの神社の名前が併記されている由来について尋ねましたところ、詳しいことは知らないが、下の部落皿木から移された物だと思うという返事でした。

 神社合祀令は明治39年に公布されます。この時期まだ法令の公布はありませんでしたが、明治政府は明治の初期から一町村一社の合祀に積極的でした。それは、神社の跡地利用と、鎮守の森の伐採から得られる収益が主な目的だったと言われます。大義名分は他にあったでしょうが、近代化を急ぐ明治政府にとって、まずは財政でした。神社合祀は、三重県和歌山県に次いで愛媛県がもっとも大規模に進められました。しかし、今の町村合併をみても分かるように、合併後の命名は難しい。ここでも合祀する神社の名前をどうするか、中々決まらなかったのではないか。一つの神名石に二つの神社名が併記された背景には、そんな事情があったと想像します。皿木は今こそ寂れていますが、明治23年に三坂トンネルが出来るまでは、久万川から広田砥部を経て松山へ抜ける街道があったのではないか。地図上で等高線を辿ると、なんとなく道が出来ます。

 米山は、県社日尾八幡宮の神官として、これの仲裁をした。そしてこの変則な神名石とともに注連石に残した「大順・成徳」という四文字に、仲裁に携わったものとして、「従って徳と成る」即ち円満解決の願いを込めたのではないでしょうか。

 最後はかなり、独断と無理がありますが、私なりに神社名併記と、注連石の文字「大順・成徳」の推測を試みてみました。

  春陽射し 二つの宮の 石照らし

神名石 「河内神社・高正神社」

注連石 右 「大順」

注連石 左 「成徳」
 
 6-5 葛城神社  久万高原町宮成 TOP  

  地図   
  北緯33度37分38.08秒 東経132度51分58.93秒

  自転車 非常に困難

 
注連石 文明・開化 1900年 3月 明治33 80才

 葛城神社は、米山の石文のあるお宮では一番厳しいところにあります。さすがの米山先生もご高齢(80才)でしたので、ここは来られていないようで、書を送ってそれをこちらで石に彫ったとのことでした。

 少しでも昔の道を走ってみようと久万に一泊して、ひわ田峠から二名(にみょう)に出る道を走ったのですが、この道は自転車で行く道ではありません。傾斜が急で、未舗装で、3キロほどの砂利と落ち葉の道を全部押しました。

 葛城神社は立派なお宮ですぐ分かったのですが、お目当ての注連石は平成十七年の夏に崩壊して二代目のレプリカがありました。元の石は何処にあるのか探していたら、総代さんだと思いますが、前の家の方が本殿の横に保管していることを教えて下さいました。

 前の田んぼに面白い石がありました。総代さんの説明によると、「食力(くうりき)と大力(だいりき)が立て比べをして、食力が勝った。やはり食力は偉い」という言い伝えがあるそうです。

 まさに「民以食為天」(民は食を以って天と為す)。食べることが一番大切だということを、端的に語っている言い伝えです。

 帰りの道を教えて頂いたら、「臼杵三島神社にも米山さんの書があるはずだから寄ってごらん」とこちらも教えて頂きました。

 短日や ひわた峠に 薄氷

葛城神社正面からの全景

  平成18年夏、自然崩壊した元の注連石
  本殿の横に保管されていた。
  今はレプリカの二代目が立っている。
  
  丁度小学生が、グループで拓本を取っていたのだが、それが終わって足場を外したとき崩壊した。幸い怪我人が無かったのが何よりだった。  

左 食力(くうりき) 右 大力(だいりき)。
小さい食力の方が優勢勝ち。

二代目注連石の横に立つ寄付者名簿。
 
 
6-6 三島神社(広田)  内子町本成  TOP

  地図   
  北緯33度36分57.28秒 東経132度50分04.45秒

  自転車 非常に困難

 
神名額 郷社・三島神社田村神社  不詳  不詳  不詳

 久万の大宝寺は、札所の四十四番で四国遍路八十八箇所の丁度半分です。四十三番明石寺から80キロあり、歩き遍路にとっては難所の一つです。久万からは逆になりますが、ひわ田峠、葛城神社を経て標高570メートルの下坂場峠を通ります。三島神社のある臼杵は、その峠を越えて広田の中心地までの中間にありました。葛城神社の総代の人から、ここに米山の書いた額があると教えられて立ち寄ったのですが、署名がありません。

 その後、鎮守の森と鳥に関することを教えてもらう為、野鳥の会の友人泉原猛さんをお訪ねしました。彼は愛媛の野鳥の生き字引であるばかりでなく、「人も動物、自然界の一員」として、自然保護の実践者です。この辺りの山のことも詳しいので、この額のことも何か分からないか尋ねてみました。

 「あーあれは米山のはずです」と、書架から出してくれたのが、久万町教育委員会が学制発布百年記念に発行した「文化財物語」でした。その169ページに,この額に関して、「浅海蘇山(愛媛大学教授)も米山作品の中でも力作であると推賞している」とはっきり書いていました。お宮の前に中田という雑貨店があって、米山はそこに暫く逗留したらしいのですが、よく分かりません。
 その後久万町の教育委員会も、色々調べて下さったのですが、年代もいま一つ分かりませんでした。

 下坂場 遍路泣かせの 根雪かな

神名額 
「郷社 三島神社・田村神社」

気になる字。
葛掛五社神社の物と非常によく似ている。

下坂場峠(標高570m)
 
 
7-1 正八幡神社(北条)  松山市小川 TOP  

  地図   
  北緯33度55分17.83秒 東経132度46分06.52秒

  自転車 平坦コース

 
注連石 魚遊於水・鳥遊於雲 1884年 9月 明治17 64才

 注連石の字句「魚遊於水・鳥遊於雲」ですが、中庸に次の一節がありました。「詩云、鳶飛戻天、魚踊于淵」(詩経にいわく、鳶飛戻天、魚踊于淵)。

そこで詩経を探したたら大雅旱麓編に、同じ字句がありました。

そして意味は「森羅万象生き生きとした生命がある」と解説していました。日尾神社の「鳥舞・魚踊」、椿さんの「龍遊、鳳舞」も別に出典があればともかく、大意は同じでないでしょうか。

米山とは違いますが、高井に近い中野町の素鵞神社に「鳶飛・魚踊」と詩経の原典の通りの字句がありました。場所の地図と写真を下にご紹介致します。

 春風や 鳶がくるり 雲と舞い

注連石から見た本殿。

注連石 右 「魚遊於水」

注連石  「鳥遊於雲」
 地図
 中野町にある素鵞神社の神名石(米山とは違う)
 注連石 右 「鳶飛」
 注連石 左 「魚躍」
 
 
7-2 美津気神社  松山市五明 TOP  

  地図   
  北緯33度53分46.65秒 東経132度49分44.43秒

  自転車 やや困難

 
注連石 天則応之・示其祥瑞 1886年10月 明治19 66才

 このお宮に車で行くなら、道後から国道317号線を今治方面へ向かい、石手のダムを越えてすぐ五明川に沿って行くのが一番普通かと思います。このコース上と、近辺には天一神社と、厳島神社(恩地)があります。

我が家のある平井町からは、観音山の峠から横谷を経て石手川ダムへ抜ける直線コースがあります。横谷という所には市営の大規模な墓地があります。私事になりますが、一昨年妻の四十九日を機に、広島にあった我が家の墓地をここに移しました。

 注連石の文字「天則応之・示其祥瑞」は日本書紀にありました。なんでも周の成王と漢の明帝のとき、白い雉が現れるという瑞兆があったらしい。そのことの記述の中にこの字句がありました。

 千の風 峠に吹けり 妻の声

注連石から階段の上の本殿を望む。

注連石 右 「示其祥瑞」

注連石 左 「天則応之」
 
 
7-3 高縄神社  松山市宮内 TOP  

  地図   
  北緯33度56分52.67秒 東経132度47分27.18秒

  自転車 平坦コース

 
寄付者名石 一金五十円・・・ 1896年 8月 明治29 76才

 高縄神社は河野一族の氏神でした。大山積神社を祀っています。

 神楽殿に、近くの河野小学校の子供達が作った河野道有の人形が飾られていました。

 あまりに遠くて気がつかなかったのですが、帰りに見たら旧道脇に「県社高縄神社」の神名石と鳥居がありました。もう一度戻って自転車のメーターで計ったら210メートルありました。この長い参道から推し量っても、さぞ河野一族の加護も厚く社料も広大だったでしょう。

 寄付者名石の経緯については、高縄神社の宮司さんから次のように教えて頂きました。

 「明治28年高縄神社が県社に昇格したとき、記念に西園寺公望公に神名石の揮毫をお願いした。その謝礼を公は受け取って下さらなかったので、寄付を頂いた形で寄付者名石を残し、それを米山に書いて貰った」

 何故西園寺公望公にお願いしたか、何故米山が寄付者名石を書いたかは詳しくは分からないとのことでしたので、以下は例によって私の無責任な推論です。

 このとき西園寺公は47才で外務大臣。10才年下に後にベルギー公使をした五代目松山市長の加藤恒忠氏が当時外務省に勤めています。加藤氏は、松山藩の儒学者大原観山の三男。正岡子規の叔父に当たる人で、秋山好古や新田長治郎とも親交が深かった。以上のようなことから考えて、西園寺公との仲を取り持ったのは、加藤恒忠氏ではないでしょうか。米山は県社日尾八幡の宮司であり、儒学者でもありますから、ここに登場しても自然です。

 高縄や 河野水軍 偲ぶ春

高縄神社本殿

寄付者名石
 「一金五拾円 文部兼外務大臣従二位勲一等 西園寺公望殿
 明治二十九年八月二十三日」

神楽殿にあった、小学生達が作った河野通有の人形。

西園寺公望揮毫の神名石。
遠く見える後ろの森が、高縄神社。
その更に後ろに霞んでいるのが、高縄山。
鳥居の間に、薄く無線の鉄塔が見える。
 
 
7-4 厳島神社(恩地)  松山市恩地 TOP  

  地図  
  北緯33度54分57.73秒 東経132度49分58.71秒

  自転車 非常に困難 普通の自転車では、下りのブレーキが心配。

 
鳥居 大巧・若拙 1896年 8月 明治29 76才

 ここは奥道後から、高縄山へ登る道の途中にあります。高縄山頂には、河野氏の本城がありました。そして道後には居城湯築城がありました。ここはその間の通路です。城山のバスの終点から更に谷川沿いに一キロほど急な山道を登り、その谷川も途絶えたところに細い山道を跨ぐように、小さなお宮があります。厳しい山道ですが、武士の馬なら、全区間を一時間も掛からなかったのではないでしょうか。

河野水軍の守り神的な厳島神社の分社が此処に祀られたのは、その時代の物だと思います。

お宮から数百メートル道なりに登ると三軒ほど民家があり、高縄山頂四十丁と標識がありました。四十丁は、土地の人の足で二時間ほどだそうです。

鳥居に米山の書「大巧・若拙」がありました。この文字は、七年前南高井の正友神社の注連石に書かれているものと同じです。違いは、七年前の「大」が不自然と言ってよいほど小さく書かれていたのに、ここの「大」は大きく書かれています。少なくとも小さくはありません。

七年間に米山の心境になんらかの変化があったのか、高縄山上に立って気分が雄大になったのか、大きく見えるのは私の気の故か。

近いうちあの世で米山先生にお会いしたら、お尋ねしてみましょう。

私 「先生、正友神社の大巧はよもだですか?」

米山「けんにいよ!わりゃめんどいこと言うなや、まあ一杯飲めや」

米山先生なら、こう答えられそうです。

せせらぎの 音も途絶えて 嶺を分け

厳島神社のお宮。
右の林道は、猪のわさに注意という、地元猟友会の看板があった。

「大巧・若拙」の鳥居
鳥居のとお宮の間の道が登山道。左高縄山頂上迄徒歩で約三時間弱。

鳥居 右 「大巧」

鳥居 左 「若拙」
 
 
7-5 国津比古命神社  松山市八反地 TOP  

  地図   
  北緯33度58分04.75秒 東経132度47分57.63秒

  自転車 平坦コース

 
記念石 式内名神両社千年祭之碑 1898年 8月 明治31 78才

 このお宮の名物は、秋祭りのみこし落としです。石段から神輿を転がり落として壊してしまいます。随分荒っぽいようですが、本来祭りに使う道具は一度限りの物なのだそうです。境内の説明文によりますと、「神輿を壊すということは、古代の歴史を、人としての生き方を、世の中の仕組みを見直す・・・」とありました。

 お宮の横を流れる立岩川に沿って県道17号線が今治方面へ走っており、道なりに7キロほど行くと、新田神社籠御前神社への上り宝入橋があります。

 寛政7年(1795年)小林一茶がこの地を訪れ、一句残しています。

 門前や 何万石の 遠かすみ  一茶

 元庄屋さん門田衛士さんの家の門前に句碑があります。この神社から海方面へ200メートルも行くと道沿いの左側です。ここには、「大名返りの松」という立派な松もあります。昔松山城に運んだが大き過ぎて門を潜れず、また此処に戻ってきたという、古い謂れのある松です。

記念石
「式内名神両社千年祭之碑」

前方石段で、みこし落としが行われる。

 地図  

 小林一茶の句碑


大名返りの松
小林一茶の句碑がある門田邸裏の庭園。
 
 
7-6 新田神社  松山市立岩米之野  TOP

  地図   
  北緯33度58分03.98秒 東経132度52分28.84秒

  自転車 かなり困難

 
神名石 新田神社 1903年12月 明治36 83才
鳥居 修徳・立義  同上  同上  同上
注連石 温故・知新  同上  同上  同上
神名額 新田神社  同上  同上  同上

 松山市の近辺に、新田神社は29あると言われます。その中で、立岩の高縄山登山道脇にあるこのお宮は、本当に小さなお宮です。

久万町教育委員会発行の「文化財物語」によると、旧小田町中田渡にある新田神社が一番古く、天文3年(1534年)に建立されたとありました。新田義貞の三男新田義宗が南北朝のとき敗れて四国に逃れてきたことが、太平記に記されており、その義宗公を祀っています。

 この小さなお宮に米山の作品が、神名石、鳥居、注連石、神名額と全部揃っているのは、驚きでした。そこで、これは松山大学の創始者新田長次郎と関係がないだろうかと想像しました。新田長次郎は温山と号し、書もよくしましたが東洋の皮革王と呼ばれた成功者です。早速松山大学の温山会にお邪魔して色々と調べて頂いたのですが、直接の関係は分かりませんでした。新田長次郎が新田義貞の流れを汲むことは、想像した通りだったのですが、年齢差が36才あること、片や北海道に3万ヘクタールの土地を手にして工場進出した大実業家であること、一方米山はこの年83才で書家としての名声は得ていますが、身分は一地方神官に過ぎないこと。それらを考えると、深い交流は無かったかもしれませんが、ともに同じ松山で同じ世代を共有しています。米山は自ら中学校の設立を計画したことも有りますから、書と教育という共通点もあります。

新田神社に書を残した明治36年、新田長次郎は緑綬褒章を受章しています。その慶事がこの新田神社で行われたのではないか、そこに米山も招かれたのではないかという想像は、私には捨て切れません。

 山の田や 鳥追い鈴に 春の風

神名石 「新田神社」

鳥井 「修徳・立義」

注連石 「温故・知新」

神名額 「新田神社」

真言宗のお寺から寄贈された灯篭
 
 
7-7 籠御前神社  松山市立岩米之野  TOP

  地図   
  北緯33度58分22.87秒 東経132度52分12.33秒

  自転車 かなり困難

 
注連石 大順・成徳 1903年12月 明治36 83才

「こもりごぜん神社」 地元の通称は「こもりさん」。 

 この神社は、北条風早地区に流れる立岩川に沿う県道17号線を遡り、立岩ダムを経て高縄山に登る細い登山道の脇にあります。細い登山道の民家の脇に更に細い険しい道を100メートルほど登った所にある小さなお宮は、つい見落として、更に数百メートル上の新田神社に行った帰りに、やっと見つかりました。

 ここの注連石の書「大順・成徳」は、新田神社と同じ時期に書かれています。元々新田神社の鳥居の「修徳立義」、注連石の「温故知新」とセットで書かれたのでないか。ならば三つの成語に共通するのは、教育の徳目です。「大順・成徳」は、ここ以外に徳川神社、松山神社、久万の河内神社にあります。それぞれにその神社と関わりがある言葉ですが、この神社は説明がつかない。皮革王緑綬褒章受賞のお祝儀も少なくなかった。そこで新田神社で数多くの揮毫をしたが、小さな神社では、もう場所がない。止むを得ず、「大順・成徳」だけここの注連石に彫られたのではない。こんな想像は荒唐無稽でしょうか。

 お宮の下に見るからに由緒がありそうな家がありました。久保さんという昔中学校の校長さんをしていた方が庭先でお仕事をしていたのでお邪魔して色々と昔のお話しを伺いました。籠御前の名の由来と関わりがあるかないかは分からないが、足利尊氏の側室の子を此処に匿ったという言い伝えがあるそうです。 

 里の春 狸も昼寝 バスを待つ

注連石 「大順・成徳


注連石 右 「大順」

注連石 左 「成徳」

山の春は遅い。里は桜が咲き始めたが、ここはしだれ梅が満開だった。

 県道17号線から、高縄山登山口に入るバス停、宝入橋の待合室にあった狸の置物。ここが籠御前神社、新田神社への目印。ここから山道に入る。
 
 
 
8-1 願成寺  松山市住吉2 TOP  

  地図   
  北緯33度51分34.81秒 東経132度43分07.72秒

  自転車 平坦コース

 
墓石 富谷亀翁之墓 1865年 8月 慶応1 45才

 
 実は、私は15年前定年退職すると同時に北京へ中国語の短期留学をしたのですが、そのときの同級生Kさんが願成寺のすぐ近くに住んでいます。彼は凄い人間で、下手な中国語で中国語教室を開き30人も生徒が居る。「私は下手だから、中国人が私に分かる中国語を話してくれる。下手だから、生徒もついてきてくれる。下手だから中国人の留学生も助けてくれる」と言います。研修生との交流も、ボランティアで定期的にやっている。

 私も下手な中国語で、お付き合いしています。

 そのKさんから先日電話がありました。

 「散歩していたら、米山なんとやらと書いた看板を見た。あんたが米山の話をしていたから、入って紹介しておいたよ。電話して下さい」

 看板の主は、なんと当米山顕彰会の重鎮鷲野鵬山先生でした。私の師匠Tさんの師匠、即ち私の大師匠です。早速電話しました。

「私米山顕彰会の末席に名を連ねる者で、先生の孫弟子です」

「そうですか、いつでも遊びに来てください」と、親しいお返事を頂きました。このホームページの題字をお願いしたら、こちらも快諾を頂きました。

 ここは、名前が良い。まさに「大願成就」。

  往生を 弥陀に託して 願成寺

 


願成寺の門
米山書の墓石 「富谷亀翁之墓」
 
 
8-2 日吉神社(南斎院) 松山市南斎院町(みなみさやまち) TOP  

  地図   
  北緯33度49分50.56秒 東経132度44分04.51秒

  自転車 平坦コース

 
注連石 萬機先神事・自餘政為後 1882年 9月 明治15 62才

 日吉神社の近くは、昭和47年に発見された古照遺跡で有名です。古照遺跡は、4世紀始めに作られた農耕用木組み堰の遺跡です。

 やはりすぐ近くに、昭和27年に出来た元NTTの研修所があります。出来たときは、電気通信省の電気通信学園と言い、実は私はここの第一期生としてモールスを習いました。そのころ、この辺をよく散歩したのですが、当時この近くのお宮で、算額を見たことがあります。日吉神社からも近い高家八幡だったような記憶がして、今回訪ねたのですが分かりませんでした。拝殿が鍵で閉ざされていて入れなかったのです。この算額は樽状の物体の体積を求める物でした。見つかれば関孝和の和算の流れを汲む貴重な資料だと思います。

 松山の御城下から少し離れていること、松山駅の裏になることなどから、便利な割りに寂れていますが、近くには国宝大宝寺などもあり歴史がある土地です。

 古を 照らす日吉の 斎院(さや)の宮

注連石 右 「萬機先神事」

注連石 左 「自餘政為後」

お宮全景
 
 
8-3 厳島神社  松山市神田町  TOP

  地図   
  北緯33度51分27.87秒 東経132度43分15.65秒

  自転車 平坦コース

 
注連石 年豊・人楽 1885年12月 明治18 65才

 米山の石文は、先に石を見て書いたのだろうか、先に書かれた物を石工が石に合わせて彫ったのだろうか。少し疑問に思っていました。

 そこで、ここ厳島神社の「年豊人楽」の文字の写真を持って、近所で石材店の社長さんをしている友人を訪ねました。社長さん一目見るなり「うわ~っ凄い!」と感嘆の声を上げられる。

 社長さんは石屋さんですから、石の彫りの見事さに嘆声を上げたのです。字が先か、石が先かは、一概に言えないようです。しかし米山の石文の殆どは、特に神名石は、先に石を見て書いていることは間違いないと思います。

文字の彫りですが、今はコンピュータ制御で、金剛砂を吹き付けて機械で彫るからどんなにでも彫れるそうです。

 「こんなに見事な彫りは、どうやって彫るのですか」という私の素朴な質問に、社長さんも、素朴に答えて下さいました。「鑿で彫るのです」。

  熟田津(にぎたつ)に 年豊人楽 春の風

鳥居から見た厳島神社

注連石 右 「年豊」

注連石 左 「人楽」
特にこの「楽」の点の彫り見事さに、石材店の社長さんが、感嘆の声を上げた。

大日本帝国 三津石工 吉村右三郎作之
地図
 近くの梅田町郵便局前にある額田王の歌碑

 熟田津に 船乗りせんと 月待てば
  潮もかないぬ 今ぞこぎいでな

 鷲野 鵬山 書
 
 
8-4 福水神社  松山市別府町 TOP  

  地図  
  北緯33度50分33.75秒 東経132度43分50.80秒

  自転車 平坦コース

 
注連石 玉潤・金声 1886年 3月 明治19 66才

 ここは、お宮の森全体が児童公園になっています。石段を登っていて早速耳に届いたのは、小鳥の声でした。

 立派な鎮守の森の裏に回ってみて、ここが小鳥の楽園であることを納得しました。以下野鳥の会の泉原猛さんに伺ったにわか勉強の受け売りです。

 鳥が生きていく為には、三つの条件がある。

 1 採餌  餌場が近いこと。

 2 塒   夜や天候の悪いとき休めること。

 3 営巣  子鳥を養える巣が作れること。

  2と3は、人間の感覚でいうと「家」ですが、鳥の場合の塒は、まさに寝るだけの場所。2と3は厳然と違う。

 3で大事なことは、子鳥に餌を運びやすい場所。それは、飛び易い所。日に何十回、何百回と餌を運ぶ親鳥にとって、樹木は安息の塒でもあるが障害物でもある。そこで森の切れ目があることが必要になる。これを林縁効果と言う。

 そう言われてみると、ここはまさに小鳥の楽園です。近くに養蜂農家がありますから花がある。花がある自然には昆虫も居る。田んぼもある。そしてなにより、豊かな樹木の島になったようなこの場所は、四方が林縁効果を持っている。

 ここは、鳥が生きていく為の条件、職住接近、地産地消、現地調達が全て揃っています。

  米山も、この鳥の声を聞いて「玉潤・金声」を揮毫したのでしょう。

  福水や 童と小鳥と 金の声

 

注連石 「玉潤・金声」
右手に見えるのが、お宮の森の一部。

注連石 右 「玉潤」
注連石 左 「金声」
裏から見た福水神社の鎮守の森。如何にも小鳥の楽園。

 旧参道の常夜灯脇で会った、福水公園にお散歩中の「優杏」ちゃん。1才8ヶ月。
 お母さんに手を添えて貰って、ハイポーズ。
 
 
8-5 忽那八幡宮  松山市中島町 TOP  

  地図   
  北緯33度58分08.55秒 東経132度37分43.83秒

  自転車 平坦コース 但しフェリーを利用。

 
注連石 年豊・民楽 1895年 5月 明治28 75才

 ここ中島は忽那水軍の根拠地であり、このお宮は、忽那水軍の総鎮守でした。忽那一族は、1184年(元暦1年)藤原道長の裔親賢がここに配流されたことに起源を発します。その後河野氏に服属し、河野氏が秀吉の四国征伐を受けて断絶すると同時に、忽那一族も滅亡しました。

 船待ちの時間があったので島を回っていて、お宮の裏のみかん畑の横に、少し気になる石がありました。石そのものは、「大野家代々の墓」と書かれた墓石ですが、石が祀られている小さな丘は、明らかに人の手が加わっています。規模は小さいけど、古墳だと思います。だとしたら、大浦の港を一望に出来、総鎮守の宮の裏に眠るこの人は、何かを知っているかもしれません。

  寒凪や 忽那八幡 島巡り

注連石 右 「年豊」

注連石 左 「民楽」

境内 参道からお宮へ登り口脇にある、大クスノキ。

大クスノキの向こうを少し登った所にある本殿。

古墳状の小さな丘の上に立つ「大野家代々之墓」。

上り(松山方面行) 下り(中島方面行)
便名 大浦 野忽那 睦月 高浜 三津浜 便名 三津浜 高浜 睦月 野忽那 大浦
 5:40  5:59  6:40  6:55  7:10  7:40  7:57  8:15
 8:35  8:56  9:13  9:45  9:57 10:10 10:25 10:55 11:12 11:30
11:45 12:25 12:37 13:00 13:15 13:55
14:10 14:31 14:48 15:20 15:32 15:50 16:05 16:35 16:52 17:10
17:30 17:51 18:08 18:40 18:55 19:10 19:25 19:55 20:14
  
  自動車と自転車は、高浜からは乗降出来ません。

  人間だけなら、高速艇もあります。 詳細 TEL 089-952-7277
 
 
 8-6 船越和気比古神社  (松山市興居島) TOP  

  地図   
  北緯33度53分28.35秒 東経132度40分26.24秒

  自転車 平坦コース 但しフェリーを利用

 
注連石 和気・致祥 1898年10月 明治31 78才

 中国成語大辞典によると、「和気致祥」の出典は《漢書・楚元王伝附劉向》となっていました。意味は「和藹之気可以招来吉祥」つまり和やかな気持ちが吉祥を招くということです。

 これまで七十二年の人生の大半を突っ張って生きてきて、人生が終わる頃になって、やっとこの「和気」の素晴らしさが分かるようになりました。

 私が船越和気比古神社のある興居島に船で渡った日は、丁度成人式の日でしが、島で五人という新成人になったその中の一人の娘さんが、船で一緒でした。迎えに来ていたご両親に「どう?可愛いでしょう」と少しおどけて和服の裾を翻していました。まさに和気藹々です。

 和気致祥 新成人の 笑みこぼれ

船越和気比古神社の全貌

注連石 右 「和気」

注連石 左 「致祥」
 
 
8-7 当田神社  松山市睦月 TOP  

  地図   
  北緯33.57分16.21秒 東経132度39分56.45秒

  自転車 平坦コース 但しフェリーを利用

 
注連石 孳孳・為善 1901年 8月 明治34 81才

 船の時間待ちをしていて、偶然元島の文化財保護委員をしていた、木村さんと知り合い、米山のことを伺うことが出来ました。当時丁度中島に逗留していた米山を、この島にも招いて書を揮毫して貰おうということになり、まずは酒の席を構え、米山のお相手を出来る酒豪を五人集めもてなしました。その時注連石の揮毫とともに書いて貰った五人の書は、全て島に残っているそうです。山本発次郎はこの島にも蒐集に来ますが、大金を積まれても誰も手放さずに大事にしたからです。

 注連石に書かれた文字「孳孳為善」は孟子にありました。「鶏鳴而起、孳孳為善、舜之徒也」。米山は、半農半漁の瀬戸の小島で勤勉に働く人達を見て、日の出とともに起きひたすら善良に働く人達、孟子が理想とした舜王が治める平和な郷で暮らす人達を思い浮かべたのでしょう。

島影に 高縄山や 春の海

注連石 右 「孳孳」

注連石 左 「為善」
当田神社

高縄山を遠望

上り(松山方面行) 下り(中島方面行)
便名 大浦 野忽那 睦月 高浜 三津浜 便名 三津浜 高浜 睦月 野忽那 大浦
 5:40  5:59  6:40  6:55  7:10  7:40  7:57  8:15
 8:35  8:56  9:13  9:45  9:57 10:10 10:25 10:55 11:12 11:30
11:45 12:25 12:37 13:00 13:15 13:55
14:10 14:31 14:48 15:20 15:32 15:50 16:05 16:35 16:52 17:10
17:30 17:51 18:08 18:40 18:55 19:10 19:25 19:55 20:14
  
  自動車と自転車は、高浜からは乗降出来ません。

  人間だけなら、高速艇もあります。 詳細 TEL 089-952-7277
 
  .作者 けんさんのホームページ www.ken-san.jp
 

200515