TOP

  地図   北緯33度46分15.22秒 東経132度48分40.76秒

  自転車 平坦コース

3−1 大宮八幡宮(荏原)  松山市上野町

 
鳥居 奉献・・・ 1881年 9月 明治14 61才

 

神名石は、五メートル近い大きな伊予の青石に、陸軍大将秋山好古が「大宮八幡神社」と楷書で大書していました。その奥の鳥居には、米山の「奉献」の二文字が、飄々と書かれていました。

ここで私の心を捉えたのは、鳥居の横にひっそりと立った、小さな幟立石のかすれた文字です。

以下は判読の部分もありますが、「寄殷 天明三年夜明松東巳二月 丹生屋氏」と読めました。

 問題は、天明三年の年号です。1783年、南海道は日本近世史上最悪の飢饉に襲われました。松山地区でも三千人を超す人が餓死し、特にこの付近は一番酷く、地獄図絵の惨状を呈したと言われます。

 中日大辞典で調べたところ、「殷」は深い憂いとありました。

 この小さな柱に深い憂いを寄せ、餓鬼地獄の中で亡くなった人達への供養をしたのでしょう。

 合掌念仏。

 

冬日差し 寄殷の石碑 文字かすれ



 秋山好古大将書「大宮八幡神社」

 米山書「奉献・・・」

 「寄殷」と書かれた幟立石

地図
 当郷餓死萬霊塔 天明の飢饉の供養塔
 
 四十八番西林寺前、小さな川を隔て太鼓橋の向こう長善寺の門前にある