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  地図   北緯33度40分38.00秒 東経132度53分07.33秒

  自転車 非常に困難

6−4 河内神社  久万高原町東明神
 
神名石 河内神社、高正神社 1899年 3月 明治32 79才
注連石 大順・成徳  同上  同上  同上

 

 この神社の神名石は、向かって右に河内神社、左に高正神社と並べて書かれています。丁度農作業をしていた、六十年配の男性がいたので、二つの神社の名前が併記されている由来について尋ねましたところ、詳しいことは知らないが、下の部落皿木から移された物だと思うという返事でした。

 神社合祀令は明治39年に公布されます。この時期まだ法令の公布はありませんでしたが、明治政府は明治の初期から一町村一社の合祀に積極的でした。それは、神社の跡地利用と、鎮守の森の伐採から得られる収益が主な目的だったと言われます。大義名分は他にあったでしょうが、近代化を急ぐ明治政府にとって、まずは財政でした。神社合祀は、三重県和歌山県に次いで愛媛県がもっとも大規模に進められました。しかし、今の町村合併をみても分かるように、合併後の命名は難しい。ここでも合祀する神社の名前をどうするか、中々決まらなかったのではないか。一つの神名石に二つの神社名が併記された背景には、そんな事情があったと想像します。皿木は今こそ寂れていますが、明治23年に三坂トンネルが出来るまでは、久万川から広田砥部を経て松山へ抜ける街道があったのではないか。地図上で等高線を辿ると、なんとなく道が出来ます。

 米山は、県社日尾八幡宮の神官として、これの仲裁をした。そしてこの変則な神名石とともに注連石に残した「大順・成徳」という四文字に、仲裁に携わったものとして、「従って徳と成る」即ち円満解決の願いを込めたのではないでしょうか。

 最後はかなり、独断と無理がありますが、私なりに神社名併記と、注連石の文字「大順・成徳」の推測を試みてみました。

  春陽射し 二つの宮の 石照らし

神名石 「河内神社・高正神社」

注連石 右 「大順」

注連石 左 「成徳」